求めるものは、もっと高い所にある。MF宮本英治【Voice】
今シーズン全試合に先発出場を続けるボランチ・宮本英治選手。2年目の今年は攻撃力に磨きをかけ、ここまで2ゴールを記録。中盤のダイナモとして攻守を支える宮本選手の、自信と野心にあふれたパーソナリティを紹介していきます。
■上位争いに絡めているのは、監督のやりたいサッカーを体現できているから。
明治安田生命J3リーグ第17節・アスルクラロ沼津戦。0対0で前半を折り返したこの試合。52分に先制ゴールを挙げたのは、全試合に先発出場中のMF宮本英治選手。チャンスと見るやゴール前へと一気にスプリント。岩渕弘人選手からの横パスをワンタッチで流し込み、うれしいJリーグ初ゴールを挙げました。
「ゴールががら空きだったので逆に緊張しました。今シーズンは得点はこだわっていたのですが、なかなか結果が出ていなくて…。ラッキーな形のゴールでしたが、あの位置までスプリントして入っていけたのは大きかったです。やっと取れたゴールなので、みんな喜んでくれました」
Jリーグ2ゴール目は、J3リーグ第20節のヴァンラーレ八戸戦でのこと。この試合で宮本選手は幾度となく果敢な上がりを見せ、ゴールの起点となるパスを送り続けました。持ち前の攻撃力を存分に見せつけた宮本選手は63分に自らゴールを決め、5対0の快勝にしっかりと貢献しました。
ここまでのシーズンを振り返り「今、上位争いに絡めているのは、村主監督のやりたいサッカー、イメージしているものを体現できているから」と語ります。
「正直、開幕前はもっと苦労すると考えていました。予想以上にやれている。
自分達のストロングである、前への強さは十分通用していると思います。昨年からフォーメーションは変わりましたが、フィジカルの強さを生かすこと、積極的にプレスをかけてどんどん前に向かうこと、球際で激しく行くこと、最後まで足を止めずに倒れないこと、といった、軸となるプレースタイルに変化はありません」
「村主博正監督が就任し、日々のトレーニングに対する姿勢が変わった」と語ります。
「毎日全力でトレーニングして、それを積み重ねていく。大事なのは、その中の些細な部分。監督は日ごろから細かい所を見ているので、選手としては決して気を抜くことができません。
例えば練習前のアップやストレッチをきちんと行うこと。毎日筋肉をギリギリまで伸ばしている選手と適当にこなしている選手とでは、ゆくゆく大きな差が生まれる。そして、そういった小さな積み重ねが試合でのプレーに影響すると思っています」
スマートな見た目とは裏腹の熱い気持ちの持ち主であり、現在首位を走るいわきFCの中盤を支える不可欠の存在。そんな宮本選手のこれまでを掘り下げていきましょう。
■「宮本=問題児」というレッテル。
福岡県北九州市出身。生まれて間もないころからボールを蹴るのが好きだった宮本選手。小学1年の時、地元のクラブでサッカーを始めます。「将来はサッカー選手になりたい」。そんな思いを胸に抱き、小学校時代から順調にスキルを伸ばしていきました。
「ポジションはFWやボランチ。どちらかというとボランチの方が好きでした。攻撃も守備も、何でも自分でやりたかった。欲張りなんですよ(笑)」
小学6年の時「力試しで」と受験したJFAアカデミー福島の選抜試験に合格します。当時、JFAアカデミー福島は東日本大震災の影響で、活動拠点を静岡県の御殿場市に移していました。宮本選手は中学入学とともに親元を離れ、サッカー漬けの生活をスタートさせます。
朝起きて学校に行き、帰ってサッカーの練習をして、ご飯を食べて、少し勉強して寝る毎日。ただし、決して順調な日々ではなかったようです。
「実は入ったばかりのころは、ほとんどサッカーをさせてもらえなかったんです。学校でケンカをして…いや、大した揉めごとではなかったんですけどね。友達に突っかかられ、ちょっとした口げんかから小競り合いになって。そのことが理由で当時の監督にめちゃくちゃ叱られ、練習に参加させてもらえなくなってしまったんです。
当時は『自分はぜんぜん悪くないのに、なぜこんなに怒られるんだろう?』という気持ちでした。でも今思えば、理解できる部分も多くあります。当時、僕らは御殿場の町に受け入れてもらっている立場。地元の皆さんのおかげで活動できていることを感謝しなくてはいけないのに、学校でトラブルを起こすとはどういうことだ、ということです。
当時はそれがわからず、ふてくされながら毎日反省文を書いていました。それでやっと練習に復帰できるとなったら、今度は忘れ物をしてまた1週間反省文を書く。そんな毎日が続き『自分はここまで何をしに来ているんだろう』と1年近く悩んでいました」
宮本=問題児。そんなレッテルを張られた苦しい状況から抜け出せたきっかけは、2年目に就任した菊原志郎監督との出会いでした。読売サッカークラブ~ヴェルディ川崎で活躍し、ヴェルディの下部組織の指導者でもあった菊原監督の指導を受け、徐々に成長していきます。
「菊原さんは僕を理解しようと努めてくれました。おそらく『宮本は問題児と聞いていたが、それほどではないぞ』と感じたのだと思います。
当時は左SB。菊原さんは世代別代表のコーチもされていて、自分の年代にいい左SBが少ないので、狙わせてみようという考えもあったようです。菊原さんの指導でサッカーが楽しくなり、プレー時間も増え、選手としても成長できました」
宮本選手はU-15とU-16の日本代表候補に選出されています。U-15は直前のケガで辞退しましたが、大阪で行われたU-16の合宿に参加。同世代のトップクラスの選手達とプレーして、多くの気づきを得ました。
「何度も呼ばれている選手と、初めて呼ばれた選手や2回目の選手では、戦術理解度がまるで違う。それには驚きましたね。監督のやりたいサッカーをいち早く理解し、ピッチで表現できる選手が常に呼ばれ、評価される。それがよくわかりました」
貴重な経験を糧に、宮本選手は高校入学後、左SBだけでなく、左SHやシャドー、0トップやトップ下でもプレー。持ち前の攻撃センスに磨きをかけていきます。
「ドリブルには当時から自信を持っていました。あのころは中央を攻め上がるよりも、サイドで受けて仕掛ける方が得意でした」
■ボランチとしてプレーの幅を広げた大学時代。
ボランチに本格転向したのは、国士館大に入ってからのことでした。「技術的にはどこのポジションでもこなせる自信があった」と語る中、中盤の層が薄かったことでチャレンジを決意。ただし規律が厳しく選手層の厚い名門・国士舘大サッカー部では、多くの苦労があったようです。
「僕が入った年は、例えば先輩には強く当たらない、というように、上下関係がピッチに影響していました。そんな厳しい環境の中、現在F.C.大阪の澁谷雅也、クロアチアでプレーしている新井晴樹、カターレ富山のMF松岡大智ら、同級生の選手達と励まし合いながら毎日を過ごしました」
2年生になると、徐々に環境が変化。宮本選手も伸び伸びとプレーできるようになっていきます。
「つらいからといって、決して1年目をムダに過ごしたわけではありません。国士舘はかなり走るチームで、インテンシティと展開力が求められる。そんな環境で毎日の練習をこなしていくうちに、走力に自信を持てるようになりました。パワーにはもともと自信がありましたが、大学に入ってプレーの幅が広がり、スピードと走力が磨かれました」
ただ、コンスタントに試合に出るまでには時間がかかりました。3年生の時、中盤は現在一緒に戦う谷村海那選手と、現在浦和レッズでプレーしている明本考浩選手がコンビを組んでおり、試合に出る機会はほとんどありませんでした。それでも宮本選手は腐ることなく、自力を蓄えていきます。
「コーチには『試合に出れる実力は十分ある。だから我慢して頑張れ』とポジティブな言葉をかけてもらって、モチベーションを保っていました」
そして、4年でキャプテンに就任。中心選手として活躍した宮本選手に、いわきFCからのオファーが届きます。
「いわきFCには平岡将豪さん(現・BTOPサンクくりやま)や平澤俊輔さん(現・スタッフ)など、JFAアカデミー時代の先輩が在籍されていたので、存在は以前から知っていました。その中で特に強く意識するようになったきっかけは、1学年上の谷村さんが入ったことでした。
試合も生で見たことがあります。大学時代、町田の近くに住んでいて、FC町田ゼルビアとのトレーニングマッチを見に行ったんです。プレミアリーグのチームみたいな縦にどんどん行くサッカーでゼルビアを圧倒していた。すごく強いチームという印象を持っていました」
いわきFCは、宮本選手に最初にオファーをくれたクラブでした。宮本選手は入団を決意し、JFAアカデミーのあった福島の地でプロとしての第一歩を踏み出すことになりました。
■フィジカルは気持ち次第。
2021年、いわきFCでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた宮本選手。入団してすぐに、今まで培ってきたフィジカルやテクニックは通用する、という感触をつかむことができました。
「高校時代から身体作りをしっかりやっていましたし、大学でもそれなりに走り込んできた。だから、フィジカルにはそれなりに自信がありました。ただし大学時代、ウエイトトレーニングはあまりやってこなかったので、入ってすぐの鍛錬期はきつかったですね。入団直後のトレーニングで、体重は4㎏増えました。
ただし、体重がどれだけ増えるか、ベンチプレスやスクワットがどれだけ挙がるか、といったことより、もっと大事なことがあると思っています。
それは気持ちです。フィジカルの強さは結局、心の持ち方次第。どれだけ重いおもりを挙げても、試合で相手にコンタクトする時に気持ちで負けていたら、何の意味もない。『こいつぶっ飛ばしてやる!(本当にぶっ飛ばしちゃいけませんが)』と思えなかったら、どんな相手にも絶対に勝てませんからね。根っこは気持ち。そこには自信を持っています」
JFL 2シーズン目を迎えていた昨シーズンのいわきFCは、4-1-3-2を採用。シーズン開幕当初は山下選手がトップ下を務め、宮本選手はアンカーとして守備に奔走していました。
「大学までそういうタイプの選手ではなかったので、全体のバランスを見ながら後ろでどっかり構えて、というアンカーの役割はなかなか難しかった。悩むことも多かったですね。
そんな時はコンビを組む山さん(MF山下優人)に相談して、話を聞いてもらいました。その日の練習で上手くいったプレーや上手くいかなかったプレー、あの時はどう判断すればよかったのかと、といったことを話して、アドバイスをもらっていました」
山下選手とは次第に息が合うようになり、シーズン途中からは状況に応じて意思疎通し、バランスを取るようになりました。それに伴い、徐々に持ち前の攻撃センスを発揮し始めます。
プロ初得点は、昨年のJFL第22節・MIOびわこ滋賀戦。前半42分、見事なミドルシュートを相手ゴールに突き刺しました。
「自分のサッカー人生の中でもなかなか取れないゴールでした。右サイドの嵯峨理久からクロスが入り『この辺りにこぼれてきそうだ!』と予測した所に、絶妙のタイミングで来た。ボールがバウンドするタイミングと芝の滑り具合、そして自分のイメージとタイミング。すべてぴったりと合って、あとは足を思い切り振るだけ。
実はミドルシュートはあまり得意じゃなくて、あの時は課題として取り組み始めた時期でした。すぐ結果が出てうれしかったですね。あのゴール以来、積極的に狙っていけるようになりました」
宮本選手はシーズンを通して試合に出続け。JFL優勝そしてJ3昇格の立役者の一人となりました。
■日々の取り組みの姿勢や人間性、周りへの気配りの優れた選手に。
J3初年度となった今年は、ここまで全試合に先発出場。攻守に欠かせない存在として、チームを支え続けています。
「JFLとJ3の大きな違いが、一つのミスが失点に直結する怖さ。J3にはJ1やJ2で有名だった選手や世代別の代表に入っていた選手など、クオリティの高い選手がたくさんいる。彼らには一発で流れを変えるクオリティがあり、何より全員がサッカーを職業にしている。JFLの選手よりもサッカーと向き合う時間が長い分、フィジカルも優れていると思います」
キャプテン山下優人選手とのコンビも円熟味を増してきました。今年は山下選手が主に後方でボールをさばき、宮本選手が積極的に上がるケースが増えています。
「山さんとは2年目。昨年よりもわかり合えていて、上手くバランスを取ってもらっています。今も積極的に話しかけて相談に乗ってもらっていますし、強く信頼しています。山さんがいてくれるから、思い切ってボールを前に運んでいける。
昨年からずっと試合に出続けていますが、不安は特にありません。身体はもともと丈夫なので、コンスタントにプレーしつつ体重やパワーも維持できています。今シーズンもケガなく突っ走っていけると思います」
村主博正監督はそんな宮本選手について、このように語ります
最後に宮本選手は、今後のビジョンについてこう語ってくれました。
「サッカー選手として見られる景色はステージによって変わる。だから上をどんどん目指したい。そして1年でも長く、サッカーで給料をもらい続けたい。
そのためには自分のサッカー選手して価値を上げること。試合で結果を出すことは決して簡単ではありません。村主さんによく『同じレベルの選手が二人いたら、日々の取り組みの姿勢や人間性、周りへの気配りなどが優れている選手がほしがられる。そういう風になれ』と言われます。自分もそうなりたい。
確かに今、それなりには力を発揮できている。でも、もっとできる。僕が求めているものは、もっと高い所にある。だから満足なんてしていません。自分はもっとできると信じています」
現在、首位を走るいわきFC。ただしJ2昇格枠「2」を巡る激闘は、まだまだこれから。そんな中、宮本選手がこの先もチームの躍進に欠かせない存在であり続けることだけは間違いありません。
次回もいわきFCの選手達の熱いVoiceをお届けします。お楽しみに!
(終わり)
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