見出し画像

災害に「まさか」は禁物 岩崎貴行(広報ぼうさい 2007.11、一部改定)

2007年3月25日、出会いと別れの季節である春の日曜日のこの日、東京は朝からあいにくの雨だった。3月1日付で日本経済新聞金沢支局から東京社会部に異動したばかりの私は、まだ慣れない新たな仕事の合間の貴重な休日をどう過ごそうか、自宅で朝から思案していた。
すると午前9時50分ごろ、携帯電話の着信音が鳴った。「9時40分過ぎ、能登半島で震度6強の地震があった」という本社からの連絡だった。能登半島と言えば、私が金沢支局時代に取材で慣れ親しんだ場所である。「地震が少ない」と言われていた石川県で大地震、との報に大きな衝撃を受けた。この時点ではどれほどの被害が出ているかわからなかったが、土地勘のある私が現地に向かうことになり、羽田空港に急いだ。
この日は羽田から直行便がある羽田空港が閉鎖されており、私が輪島市内に着いたのは結局夜8時頃だった。周囲が暗く被害の大きさが実感できなかったが、翌朝全国的に知られる輪島の朝市通りに向かうと、全壊した無残な姿の木造家屋の数々が眼前に広がっていた。普段は200以上の店が出てにぎわう朝市は人影がほとんどなく、しんと静まり返っていた。何十年も朝市で店を出してきた女性が「こんなに恐ろしい目になったのは初めて」と声を震わせながら話していたのが印象的だった。
今年は地震の恐ろしさを再認識した年だった。能登半島地震に続き、7月16日には最大震度6強の新潟県中越沖地震が発生。2004年10月23日に起きた新潟県中越地震をほうふつとさせる大きな地震に、新潟県民は相当の恐怖を感じたに違いない。
能登半島地震も含め、日本海側の北陸信越地域で起きた3回の地震に共通するのは、いずれも地震が想定されていなかった地域で起きたということだ。中越地震によって国民の多くが「日本全国どこでも地震は起きうる」と感じたはずだが、実際のところ静岡県や愛知県など東海地震(南海トラフ地震)の恐れがある地域以外では、行政も住民もまだまだ防災意識が高いとは言えないのが現状だ。
防災意識の低さは地方に限らず、近いうちに首都直下地震が起きるとされる首都圏でも変わらない。今年9月1日の防災の日、東京都内で防災避難訓練を取材したときのこと。訓練に参加した27歳の女性が「友達から『なんでわざわざ訓練なんか参加するの?変わってるね』と言われました」と苦笑いしていた。物理学者・文筆家の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残したが、これは現代でもそのまま当てはまる言葉だろう。
 もう一つの共通点は、いずれも過疎化や高齢化が進んでいる地域だということ。高齢者は耐震性の低い古い木造住宅に住み続ける傾向にあり、地震で被害を受けたのはこうした住宅が多かった。中越沖地震では。亡くなった11人のうち9人が倒壊家屋などの下敷きになった人で、そのほとんどが高齢者だった。
足腰の弱い高齢者や障害者などの「災害弱者」をどう支えるか。これは防災対策の中でも最も重要なことだと感じる。高齢者や障害者の場合、避難所までたどり着いてもプライバシーが保てず、座り心地の悪い床で過ごす体育館などでの避難生活は精神的、肉体的にも大きな負担になる。
中越沖地震の時に取材で訪れた柏崎市内の避難所では、高齢者だけが疲弊した表情で避難所に残されていた光景を何度も見た。
「衣・食・住」。普段は当たり前のように世の中にあふれているものが、災害時には本当に貴重だと被災者の皆さんは強く実感するようだ。前出の寺田寅彦は地震の被災経験を踏まえ、「大きな地震があった場合に都市の水道や瓦斯が駄目になるというやうな事は、初めから明らかに分かって居るが、また不思議に皆がいつでも忘れて居る事実でもある」とも指摘している。被災者の声に耳を傾け、日々の生活に支障が出ないようにすることが国や自治体に求められることだろう。
小泉純一郎元首相は今年9月、安倍晋三前首相が所信表明演説直後に電撃辞任したことについて「人生には上り坂もあれば下り坂もある。もうひとつは『まさか』という坂だ」と、驚きの心境を吐露している。前にも書いたが、災害は日本全国どこでも起こりうるものだ。災害を「まさか」の事態とは考えず、国や地方自治体は災害対策や被災者支援の仕組み、住民は精神面や物資面の備えを普段から意識することが欠かせない。

写真:消防防災科学センター

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?