見出し画像

「ヨクマナビ、ヨクアソベ」

「遊び」、足りてますか?


「ヨクマナビ、ヨクアソベ」

こちらは戦前の「修身科」の初等科の教科書において、

最初に掲げられている言葉であり教えです。


戦前の「尋常小学校」においては、

現在の公教育における「道徳科」が「修身科」として存在し、


「人としてどう生きるべきか」

を主題にする最初の授業で取り上げられていた、

つまり最も重要な内容だということです。


「尋常小学校」と「修身科」について、書籍より引用します。m(_ _)m

我々の時分には、あるいは戦前の国民学校もそうだったと思いますが、修身というのが学科にありました。これが一番の基本になっていました。けれども戦後になると教育行政で大いなる変革がなされまして、学校の中でまず第一に学科から外されたのが修身科でありました。それから国史科と地理科も廃止されて、社会科というものが新設されました。戦後は自己自身を修めるところの学科がなくなってしまったわけです。
(中略)
昭和30年頃に、日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるようになった。経済的動物であると。それぐらいならいいけれど、エロチック・アニマルなんて言われて軽蔑的な眼で見られるようになってしまった。
これではいかん、何とかしなければ、というので、すったもんだの末にできたのが道徳科というものです。昔の修身科が道徳科として復活をするんです。
それが昭和三十二、三年の話ですから、昭和二十二年ぐらいからそのあたりまでは修身科もなく道徳科もないという時代があったわけです。そういう時代に学んだ人が今、政治界でも経済界でもトップクラスに来ている。これらの人々に修身科とか道徳科といってもわからんわけです。いわゆる小学的教育を受けずに来た年齢期の人たちがあるということですね。

伊與田覺『大学を素読する』より引用

今の政治世界などの世相を見るに、大いに反省させられますね。。m(_ _)m


そもそも「道徳」と聞くと、

小学校から授業として一応存在はしていた記憶はありますが、

(一所懸命に取り組まれている小学校の先生方には申し訳ないですが)


予備校で教えていた生徒の発言としても、

生徒「人としての生き方ならNARUTOから学びましたよ!」


という忘れられない記憶があります。笑

(僕は無論ドラゴンボールから学びましたが笑)


人生に刻まれるような「道徳」を、果たして学校で教えられるのか?

というのは、問われるべき深いテーマではあります。


ともかく、戦前の「修身」ではまず初めに

「学びも遊びも両方とも大切だ」

と教えていたとわかります。


これは「人としてどう生きるべきか」に関わりますから、

何も子どもに限った話ではないのは明白でしょう!!


ということで気になるのは、

「皆さん、『遊び』足りてますか?」


という問い立てです。


要は、「遊ぶように学べ!」「学ぶように遊べ!」といって、

どちらも同じ姿勢で取り組み同じくらい大切にせよ!とも受け取れます。


子供の頃の「遊び」を思い出してみてください。

その上で、大人である皆さんにも聞いてみたい。

「遊び、足りてますか?」、と。


「遊び」とは「ゆとり」であり「余裕」のこと


自分自身の反省が大きく影響する話ではありますが、

現代人には遊びが足りていない!


とも、


現代人は遊び方を忘れてしまった!


とも、強く思うところがあります。

そもそも、この現代の「競争社会」において、

「遊び」よりも「仕事」が優先されているのは致し方ないとしても、


「仕事が出来るかできないか」が「知名度や収入」という基準で測られ、

「遊びが出来るかできないか」については殆ど不問であるのが現状です。


そもそも「遊び」といっても、

「家のソファーでNetflixを観る」とか、

「パソコンでAmazonプライムを観る」とか、

「スマホでYouTubeを観る」とか、

余りに画一化されてやしませんか?(「観る」に限定したのは自分。笑)


仮に「遊び」を「趣味・レジャー」と捉えたとしても、


お金をかけたアウトドアとか、

ジムに行って筋トレしたり走ったりとか、


「極める」とか「深める」という次元があまり問題になっていないような、

どこか「作業」的な印象も受けてしまいます。

そもそもの問題意識は「競争社会」そのものにもあるわけですが、


要は「人と比べてどうだとか」を問題にする前に、

大いに「遊び」に励んで「自分を楽しませる」ことができていれば、

周りのことなど気にならないと思うのです。

だって、「遊び」は「没頭する」のが当たり前だもの(みつを風)。


「游学」という概念


「悠々自適」という言葉がありますよね。

そう聞いていいイメージを持たれる方が殆どではないでしょうか?


「悠々」という表記以外にも色々あり、

特に「遊ぶ」ということと絡んで大事な指摘があります。


優游自適
真の学問は始めもなく終りもないものだが、どこをとっても良いというものでなければならぬ。だから真の学問をしようと思えばどこからでも入れる。丁度大河が幾多の支流を合わせつつ海に流れてゆくように。その意味で”遊(游)学”は実によい言葉だ。

”優游自適”は中国古代黄河治水の苦難の末に生まれた方法であり言葉だが、これは極東文化の一大原理をなしている。遊学然り、遊戯然り、戦争でも最も老練な攻撃を遊撃という。支那事変で日本が苦しめられたのもこれだ。

安岡正篤『照心語録』より



「遊ぶように学ぶ」という感覚をお伝えしたくて書き出した次第ですが、


「遊ぶ」ことを知らないと、

徹底的に「学ぶ」という姿勢も身につかないのではないかと。


「遊ぶ」ということも、中途半端では務まらないと言いますか。


「遊撃」という言葉からしますと、

「遊ぶ」という境地はある種の「究極形」であるとも読み取れそうです。


「遊び」というテーマでも、考察を深めて参りたいと思います。m(_ _)m

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?