私の執筆談 その一
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まえがき
私はこれまで、合計8冊の単著を書いてきました。共著を含めれば、10冊になります。内容は全て近現代(主に昭和)に活躍した陸軍軍人が対象で、新書6冊、単行本2冊です。
厳密にデータをとったわけではありませんが、こういったテーマでこれだけの冊数を書いている同じ世代(30〜40代)はそんなに多くはないかと思います(残念ながらそれほど売れているわけではありませんが…)。今回は出版不況といわれる現在、それでもなんとかこれだけの本を書いてきた自分の経験について、少しお話ししていきたいと思います。
『多田駿伝』
私が書いた最初の本は、『多田駿伝』(小学館)です。平成29年3月のことでした。本書の主人公である多田駿(陸軍大将)は、陸軍でも屈指の中国通と言われた人物で、その後の日本の運命を大きく左右する盧溝橋事件(昭和12年7月)が勃発した直後に参謀本部次長として軍の舵取りを担いました。盧溝橋事件はその後長く続く日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の発端になった事件であり、多田は極めて困難な時期に参謀次長になったと言えるでしょう。
私が多田という人物を初めて知ったのは、確か大学生の時だったと思います。その時読んだ『明治・大正・昭和 30の「真実」』という本の中に、多田駿が出てきました。
同書の「近衛文麿は軍部よりも日中戦争に積極的だった」という一章の中に、中国(蒋介石)との停戦交渉打ち切りを主張する近衛文麿らに対し、頑なに交渉継続を主張する参謀次長として多田駿の名が上がっており、興味を惹かれたのです。
というのも、それまで私もご多分に漏れず、「陸軍は常に強硬論者」「参謀本部は特に」というイメージがあったからです。
ところが、多田駿という人物は違いました。彼は参謀次長就任時からほぼ一貫して「対中和平」へ情熱を燃やし、トラウトマン工作(中華民国駐在ドイツ大使オスカー・トラウトマンを通じた和平工作)継続による戦争終結への道を探っていました。
多田と、当時の首相である近衛文麿、外相の広田弘毅らの対立が頂点に達したのは、昭和13年1月の大本営政府連絡会議の場でのことです。会議では、トラウトマン工作の打ち切りを主張する近衛文麿らに対し、参謀次長の多田駿一人が頑なに反対し、議論は難航しました。この時、海軍大臣の米内光政も交渉継続に冷淡で、「参謀次長が政府の方針に反対ならば政府は辞職のほかはない」(意訳)とまで述べています。米内という人物は昭和史のなかで評判がよく、実際に相当な人物なのかもしれませんが、こと昭和12〜13年初頭の日中戦争初期には問題のある発言をいくつか残しています。
多田はそれでも和平交渉打ち切りに反対しようとしましたが、「このまま参謀本部が反対すれば内閣が倒れるかもしれない」(意訳)と説得され、この段階でそれはまずいと思い、交渉打ち切り「賛成もしないが反対もしない」という態度でしぶしぶ認めることになるのです(詳しくは拙著『多田駿伝』を参照。紙媒体の入手が難しくなっているので、電子書籍での購読がおすすめです)。
執筆のきっかけ
以上のような多田駿の人物像については、本で知ってからずっと印象に残っていました。ただし、すぐに何かするとかいうのではなく、名前が記憶に残っている、「気になる人物の一人」という程度のものでした。
それが、「本として書いてみよう」となったのは、大学卒業後に就職した会社を数ヶ月で辞めた後です。実家から遠く離れた関西の会社で総務の仕事に就いたのですが、慣れない地での初めての一人暮らしという不安、また自分の仕事のできなさに絶望し、体調を崩してしまいました(会社がブラックだというわけではありません。念のため)。
通院しながらもなんとか会社へ復帰する道を探っていたのですが、結局それも叶わず、卒業してわずか半年ほどで実家に帰ってくることになりました。
そのすぐ後のことですが、とある縁から知った読書感想文の懸賞に応募したところ、運よく佳作となり、10万円の賞金を得ることができました。
実は大学時代も懸賞論文で賞金をもらったことがあったのですが、その時は「卒論」「就職」という課題もあり、文章で収入を得て暮らす、という考え方はあまりありませんでした。
もっとも、「本を書く」ということに全く欲がなかったわけではなく、「学者になって研究を続け、本を書きたい」という夢もありました。ただし、当時の自分の金銭状況から大学院へ進んで研究を続けることは現実的ではなく、「本を書く」というのは現実的な目標ではありませんでした(もちろん、金銭的に余裕があっても学者になれるとは限りませんが)。
そして多くの学生と同じく苦難の就活を経て普通に社会の一員となる過程を歩みながらも、自分の無能さから挫折し、さらに運よく「文章によって金銭を得る」経験をしたのでした。これが、「ひょっとしたら、努力すれば自分は本を書けるかもしれない」と思うきっかけだったのです。
どうやって本を出すか
さて、次は具体的に「どうやって本を出すか」の問題です。現代では電子書籍であれば割合簡単に本を出すことができるかもしれませんが、私はやはり「紙の本」という意識があり、これを出す方法を考えました。自費出版という手もありますが、基本的に金銭に余裕がないですし、「できれば職業的に書きたい」と思っていたので、違う方法を考えました。
そして単純ではありますが、王道(?)とも言える手段として挑むことになったのが、「公募」です。出版社などが主催している「〇〇賞」に応募し、賞に通って何らかの形で本を出す、というものです。
もちろん、この方法はかなりハードルが高いものになります。そもそも「公募新人賞」となると小説を募集するものが圧倒的に多く、私が書きたい歴史書などを発表する場はあまりありませんでした。
私は小説は書けませんし、仮に書けたとしても賞に通るようなものになるとは思えませんでした。全く興味がないと言えば嘘になりますが、それにしても「何千という候補作の中で頭ひとつ抜けるようなものを書く」というようなモチベーションはありませんでした。
そもそも小説という形式そのものにかつてほど熱心ではなく(むろん個人の感想です)、一冊の本を書き通すような情熱がありませんでした。
私が書きたいのは、フィクションではなくノンフィクション、それも昔から好きで、大学では専攻した近現代史についての本でした。なんとか自分の好きなテーマで本を書きたい……。そう思いながら公募新人賞を探し、見つけたのが「小学館ノンフィクション大賞」でした。https://www.shogakukan.co.jp/news/prize/nonfic31
小学館については、私が説明するまでもないでしょう。雑誌から書籍まで、日本有数の規模を誇る出版社です。この小学館が主催しているのが、「小学館ノンフィクション大賞」です。プロ、アマ問わず、基本的には未発表のノンフィクション作品が選考大賞となり、数百万円の賞金と出版が約束されるーーー。さすがに巨大出版社が主催するだけあり、規模もデカい。
それだけに、これに通過するのはものすごく難しい。にも関わらず、私はこれに挑んでみることにしました。
「ノンフィクションといっても、近現代史などを題材にしたものを応募して見込みはあるか」という疑問もありました。なんとなく、体験ルポや現代の事件や事故をテーマにしたものが多い印象があったのです。しかし、過去の受賞作を見ると少ないながらも『昭和犬奇人 平岩米吉伝』のような近現代の人物を扱った作品もありました。これで私は「なんとかなるかもしれない」との自信を得たのです。
卒業論文以外に長い文章を書いたこともない私は、こうして無謀にも「出版への道」を目指して巨大公募新人賞に挑むことになりました。
続
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