SNSのない時代に人とつながり続けようとした詩人
相田みつを美術館閉館へ
生誕99年目最後の企画展
東京都千代田区丸の内にある「相田みつを美術館」が、1月28日をもって閉館することになったそうです。
美術館は、1996年に銀座で開館し、2003年に丸の内に移転。移転後、およそ10年で美術館としての仕事を終え幕を閉じることになりました。
なぜ、国民的にも愛される書家であり詩人である相田みつを氏(1924~91年)の作品を展示する美術館を残すことができなかったのでしょうか。
「じだいだもの」「おかねだもの」 「にんげんだもの」もし、相田みつを死が生きていたらどのような言葉を紡いでいたのでしょうか。
美術館を存続できなかった理由について調べてみたいと思います。
閉館へ 最後の企画展
率直な言葉と独特の筆遣いの作品がファンの心を癒やし、親しまれてきた相田みつを氏を知らない人はまずいないだろうと思います。
直接作品を見たことがない人でもおそらく一度はその言葉を目にしたり、耳にしたことはあると思います。
時には実家のカレンダーに、時には居酒屋の休息室に、失礼を承知でいうと相田みつを氏の詩はトイレによく似合うと思っている人もいると思います。
「相田みつを美術館」という言葉も聞いたことがあっても行ったことはありませんでした。丸の内にあるそうで調べるとその前は銀座にあったそうです。
現在、最後に行われている展示は、企画展「生きること 書くこと」と題して、その最終日をもって、美術館は閉館します。
第82回目の企画展として、美術館のHPには以下のような説明が添えられてらいます。
1924年生まれの作家の美術館は、生誕99年目に閉館を迎えることになりました。
閉館にともない、ほかの会場での作品展示や通信販売といった業務、公式ホームページやメールマガジンなどでの発信は継続するということですが、やはりどこか寂しさを感じてしまいます。
道と題した詩
最後の企画展のメインビジュアルには、自身の「道」と題した詩を前に、カメラを直視する作家の写真が使われています。
相田みつを氏の道についての詩について、触れておきます。
現代の感覚でとらえると、「黙って受け入れる」「泣くな」という感じよりも、おそらく「泣いてもイイよ」というニュアンスになる方が時代の空気なのかも知れませんが、「 涙なんか見せちゃダメだぜ」というみつを氏の言葉に時代性と詩作や生活に苦労をした作家の本音が感じられます。
そして、そういったメッセージを率直に言葉に出来るのが相田みつを氏の魅力だったのかもしれません。
今だったらX(旧twitter)でバズるよな短いつぶやきだったり、SNSで使われるCTA(コールトゥアクション)のような呼びかける口調を当時から自然に詩作に使っていて、それが親近感だったり、親身に語りかけてくるような効果に繋がっていたとも推測できます。
「みんなちがってみんないい」「にんげんだもの」もそこだけ切り取ると寛容でおおらかで、多様性を認めた言葉のように聞こえがちですが、道の詩を読んだあとには全く逆の意味にも感じられます。
みんなちがっていいのなら、わがみちをいく
にんげんだから、うまくいかなくてもだまってあるく
ばかだといわれてもおれはいい
それでもいっしょうけんめい、いきてるんだから それでみんなもいいんじゃないか
ひとりごとだから そうおもわないひとは
それでいいんだぜ
今読むとそんなメッセージにも聞こえるような気がします。
私は、生まれてこの方40数年間、そんな相田みつを氏の魅力に気がつかづに、ボーっとトイレのカレンダーを見てきたのかもしれません。
世間が持つやさしい言葉で語る、いい感じのおじさん、といったイメージが本人の意図するところだったのかどうかは、もはや故人に確認するすべはありません。
その答えは、氏の言葉や書画の中に残っているのだと思います。やさしさは必要ですが、ただのやさしさだけでは、あんなにも人の心を勇気づけ、感情を鼓舞することはできないと思うと、やはり不思議に感じてしまいます。
相田みつを氏はこうも言っています。
意外な背景
カレンダーの中の詩は見たことがあっても、私は書家で詩人の相田みつを氏の人物像をあまり知らなかった。
ときにぶっきらぼうにさえ聞こえるのに、人の心の深淵に迫る独特の詩、そして書体。相田みつをさんとはどんな人だったのだろうか?
相田みつを氏は大正13年(1924年)5月20日、栃木県足利市に6人兄弟の三男として誕生しました。本名は光男。
旧制足利中学校を卒業後、曹洞宗の禅僧・武井哲応老師と出会い、禅を学びます。若いころから書家・詩人として独特の世界観を表現していたが、世に知られるまでは長い時間がかかったそうです。
1955年、31才のときにろうけつ染めの技術を学び、のれんや風呂敷の制作を始めます。包装紙などのデザインで貧しい生計を支えていたて時期もあったようです。長男・一人さんが誕生するも、作品がまったく売れず、家計は苦しい状況が続きました。
その存在を広く知られるようになったのは1984年、初の著書『にんげんだもの』(文化出版局)の出版がきっかけです実は、このときすでに、相田みつをさんは60才で、遅咲きのブレイクといっても過言ではありません。同書は200万部を超える大ベストセラーとなりました。
作品のクオリティーに対するこだわりは人一倍強く、「逢」という一文字を書くために何千枚もの紙を使い、「無駄になった紙でお風呂を焚けるほどでした」と息子の一人さんが語っています。。
同じく書家として活躍中の武田双雲さんの発言に次のようなコメントが残っています。
「一生勉強 一生青春」
みつをさんが生前繰り返し書き、その言葉どおりに生きたといえるこの書は、タレントのみのもんたさんが座右の銘にしているといいます。
言い得て妙のようでいて、意外でもある点がおもしろいです。名前(芸名)が平仮名という点では納得が出きます。
相田みつをさんの誌が世に注目されるようになってからわずか7年後の1991年12月17日、足利市にて永眠。67才の早い時期に亡くなったそうです。
そして2011年。3月11日の震災後、「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」の言葉がブログやツイッターで話題となり、共感を呼び、没後に再び脚光を浴びる機会も時折みうけられます。
美術館の閉館理由
相田みつを美術館の閉館の話に話題を戻します。閉館に至る理由は、美術館の入る東京国際フォーラムの大規模修繕工事に伴う閉館ということが発表されています。
今後の移転などは示されていないようです。
「生きること 書くこと」を生涯貫いた作家の本物の作品を「見せる場所」がひとつ減ってしまったとも言えますが、作家の言葉や詩は時代を越えて残っていきます。
書についても、複製されカレンダーとして誰かの家のトイレに貼られ続けることでしょう。
同じく「道」と題した自生の句を読んだプラレスラーはこう言っていました。
この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足がみちとなり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ
このように考えると、
相田みつを氏は、案外、ストロングスタイルな作家だったのかもしれません。
また、アントニオ猪木死のトイレには相田みつを氏のカレンダーが貼っていたのかもしれません。
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