見出し画像

いろいろやる。と。楽しい。

インターネットになにかをアップしはじめたのは、mixiからだ。いまは見る影もないけど、いちばん勢いのあったころのmixiだから、もう10年以上前だ。そのときはまだ学生だった。超短編小説を、主に書いていた。ぜんぶで200作品くらいのショートショートを書いた。実をいうと、そのときに書いた作品を手直しして、noteにアップしたりもしている。その当時はmixiではショートショートをメインに発表していこうという謎の決意があって、それをできるだけ忠実に守っていた。

そののち、就職をして、なかなかブラックな業界にいたもので、忙しさのあまり創作のスピードが落ち、ずっとつづけていたmixiも開店休業状態になった。数年は、月に数回更新できればよいほう、という状態になっていた。

それでいっときインターネット的なものから疎遠になった。そういう時期を経て、2016年あたりから再びnoteに記事をアップするようになった。じつはいまもmixiもちょびっとだけ続けているのだが、昔のなじみの数人と近況報告をするだけのツールとなっている。

それで、noteだ。noteで記事を活発にアップしていくにあたり、超短編をメインに書いていく、という自分ルールを撤廃した。ひとつのジャンルに特化して、ガリガリ作品を作っていく、というのは、達成感があるが、反面どんどん方向性が規定されていってしまう。これを洗練と呼ぶか、ということなのだ。

ブログの運営のコツ、みたいなことをかいてあるサイトを見ると、「テーマを絞る」というアドバイスがなされている。コラムや、小説や、マンガやイラストや、とにかくそれらのいずれかに特化して、記事を書いていったほうが、固定の読者がついてくれる、みたいなことが書いてある。そうだろうなあ。この人のブログ、面白いなあ、と思っても、その翌日に全然興味ない記事がいきなり始まったら、もう読まないだろうなあ、と思う。

しかしながら。それはあくまで読者目線にたった場合の、よいブログの作り方だろう。あるいはマンガとか、小説とかで、プロを目指したい人のブログの作り方だろう。たしかにブログを読者の目線から見て良い形にしていく、というのは素晴らしいことだ。でも、必死でプロを目指しているわけではない書き手目線にたった場合、ジャンルを特化してしまうことは、自分の首を締めることにもつながりかねないと思うようになった。

ある種の方向性に自分を尖らせていくことは、その道の達人になるためには必要なことだと思う。でも、私にはそういう目的がない。いまの私は、インターネットになにかをアップすることで、なんとなく、じんわり自分の可能性を広げていければいいかな、と思っている。かつ、読者目線ではなく、自分目線でブログを続けていければいいかな、とも思っている。

だいたいストイックになにかをするのが不得手なのだ。ショートショートを200篇書いているときも、なにか途中から修行のようになってきて、それはそれで自分を鍛えられたと思うが、自分に合っていないトレーニング方法だったと、振り返ってみて思う。どっちかいうと、私はなにかの専門家になるよりも、なんとなくふらふら興味のあるほうに回遊を続けていることが、自分に合ったトレーニングになっているような気がする。

じじつ、コラムやショートショート、マンガやイラスト、俳句など、ほぼフリースタイルでnoteを更新している過程で、ネット以外の、リアルな生活での自分の思考までもが以前より柔軟になったと、実感している。

頭の中になにか形にできそうなアイデアが浮かぶ。すると、それをコラムとするか、あるいはフィクションの物語とするか、はたまたイラストやマンガ、あるいは俳句にしてみるか、そういういろいろな選択肢があって、どれがいちばんそのアイデアをすっきり造形できるかを考える工程がある。

昔の私には、そんな工程はなかった。mixiでやってたころは、アイデアをかならず小説として表現しなければいけないと考えていて、そのアイデアを造形するツールとしてはたして小説が最良のものなのか、ということを検討する余地がなかった。窮屈なことをしていたなあ、と振り返ってみて思う。

頭のなかのもやもやしたアイデアを、どういうツールを用いて造形するか、それを今は楽しんでいる。そういうのを考えることを、昔はなぜか放棄していたのだが、もったいないことだったな。表現する手段をたくさん持つこと。いろいろやると、楽しい。けっこう充実した毎日を送っています、おかげさまで。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

読んで下さりありがとうございます!こんなカオスなブログにお立ち寄り下さったこと感謝してます。SNSにて記事をシェアして頂ければ大変うれしいです!twitterは https://twitter.com/yu_iwashi_z