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【 大峯修行体験記④ 】:役小角と黄金大仏〜古代のアナキズム&保守思想〜

①〜③で日本書紀から壬申の乱を経て、国津神井光、角乗、大海人皇子と修験道開祖役小角と吉野海人族が一本の線で繋がってスッキリした。

ここではそもそもの疑問だった"金峯山はなんで黄金の峰の山なの?"から、ほんとに金があったの?という疑問の検証をしてみる。この過程でたまたま見えてきた古代日本の保守思想、アナキズム、リバタリアニズムというちょっと特殊な視点もからめてみようと思う。

引き続き、「役行者 修験道と海人と黄金伝説/前田良一著(日本経済新聞出版)」を参照しつつ考察してみる。

この疑問を検証するにあたって、役小角と同時代を生きた行基という法相宗の僧侶に焦点を当てたい。
役小角が足跡を残したところは仏教僧、行基が後を追うように足跡を残している。

有名な奈良の大仏は行基の勧進によって建立されたが、当初は紫香楽宮の甲賀寺に建立される予定だった。ここは現在の滋賀県甲賀市、飯道山のふもとにあたり、役小角が開基した修験道の霊場である。(この飯道山の山伏が伝授して始まったのが映画やアニメでもお馴染みの甲賀忍術)
さらに行基は山上ヶ岳頂上の蔵王堂(現在の大峰山寺本堂)を修築し、吉野山山下の蔵王堂(現在の金峰山寺本堂)を造営しており、役小角と行基には師弟関係ともいえるような、密な繋がりを見出さずにはいられない。

行基が修めた法相の教えをはじめ、南都六宗と呼ばれる当時の奈良仏教は一般民衆の苦悩を救うために伝来したものではなかった。
鎮護国家のための統治システムとして百済より伝来したのが始まりであり、奈良の東大寺や法隆寺は学問寺として建立された。
僧侶になりたくても難しい国家試験に合格しなければならず、一般民衆には全くもってチンプンカンプンであった。

行基が活動していた西暦700年前後は律令体制が機能不全で立ち行かなくなりつつあり、国内は荒れ放題、公職者は私腹を肥やすことばかりに専念し、僧侶は堕落し、諸国の寺家は荒れ果て、仏像は埃をかぶり経典は風雨にさられていたと続日本紀にはある。
そうした中で民衆の中に入り、民衆の苦悩を救おうとしたのが行基である。
仏教の深淵な哲学を説こうとしたのではなく、困っている人があれば話を聞いて励まし、病に伏せる人には薬を手渡し、治療を施した。
この時代、すでに中国では初歩的な麻酔や切開外科手術も行われていたので、渡来人と交流の深い行基がその技術を用いていた可能性は十分にあり得る。

当時の日本には社会福祉制度などあるはずもないので、みな救いをもとめて行基のもとへ集まった。その数は一万人を超えるとも言われている。そこでは莫大な資材や資金を必要とするような大規模な土木工事がいつくつも行われており、コソコソ隠れてできるようなものではなかった。事実上の「治外法権行基国家」がそこにはあったのだ。また、行基は岩穴に住み、山を拠点とし活動しており、これは役小角の修験道特有のスタイルである。
そして行基と共に修行をしたものは山伏となっていった。
ここに古代日本独特のアナキズムを見ることができるような気がする。
"お上には素直に服従"する日本人像とは異なる姿がそこにはある。
政府に頼ってなんかいられない。自分達の身は自分達で守る。農民であろうと武装もする。落武者狩りもする。仇討ちに喧嘩両成敗。成文法よりコモン・ロー。
まさにアナキズム。

そもそも協調と集団性を重んじ、空気を読んで他人に同調するといったような日本人的とされる特徴は長く平和な時代が続いた江戸時代に形成されたものだ。武士道という言葉がはじめて出てきたのもこの頃だ。
江戸時代以前の日本人は、布教のために入国した外国人宣教師をして"喧嘩っぱやく、極めて交戦的。戦慣れしており武力による征服は困難"と言わしめている。
古代の日本人はエドマンド・バーグ的な保守主義者で、しかもかなり気合いが入っていたんじゃないだろうか。

「和を以て貴しと為す」
律令体制という中央集権国家を目指す聖徳太子のいう「和」とはなにか。
そしてわざわざ成文化しなければならなかったのはなぜか。
もともと慣習としてあるものはわざわざ成文化する必要などない。裏を返せば、「和」を持たぬ強靭な「個」としての民族性がそこにはあったんじゃないだろうか。

古代日本人の保守思想といえば、「今の世界がわかる哲学&近現代史/茂木誠・松本誠一郎(マガジンハウス新書)」に黒澤明の「七人の侍」に関する面白い内容があった。
「七人の侍」は、貧しい農民がヒーローのような侍達とともに搾取と暴力に打ち勝つというマルクス的な文脈で語られることが多いが、農民達が隠し持っていた大量の武器に着目することは少ない。農民達も実は野武士狩りをやっていた。政府は搾取するばかりで何もしてくれないので、そうやって自分達だけで生き抜いてきた。ここで農民=保守主義者、浪人=リバタリアンという構図を見出すことができる、と。
お上がなんとかしてくれる、お上が全部決めてくれるなんて生ぬるい感覚は微塵もない、気合いの入った保守思想。
共同体として強かに生き抜く保守主義者と、強靭な個として自由に生きていくリバタリアン、そして根底に流れる主調低音としてのアナキズム。
これらが共闘することで困難に打ち勝つという物語が七人の侍だと主張している。
今の日本人に決定的に欠如している感覚なようでとても興味深かった。

話が脱線してしまったので元に戻す。
このように大規模化した行基集団を朝廷は新勢力として快く思わなかった。
「僧侶が寺に住まず、修行の法に背いて気ままに山に入り、たやすく庵や岩屋をつくることは、清浄な山河を汚す」と弾圧を始めた。
処刑対象ギリギリの行基の転機となったのが奈良の大仏建立事業である。朝廷は大きくなり過ぎた行気集団を抹殺するのではなく、大僧正という最高位を与えて、大仏建立の総責任者として大抜擢することで内部に取り込もうとした。
行基としても自身の信仰の普及の交換条件としてこれを受諾した。

巨大大仏の全身を黄金でメッキするという前代未聞の国家事業であったが、工事の途中で金が不足した。当時から黄金といえば金峯山と知れ渡っており、朝廷は不足した黄金を金峯山から補おうと考えた。
しかし金峯山蔵王権現の答えはノー。その代わりに近江国に如意輪観音を祀れば金が見つかると教え、その通りにしたら今の宮城県で本当に金が見つかった。
これは当時の山伏達の全国ネットワークの広さを物語るエピソードと捉えることができる。

しかしこの宮城県で見つかった黄金の量は必要な量の10分の1程度だったと記録されている。
では残りの大部分の黄金はどこから来たのか。
その答えは東大寺最大の行事「お水取り」から伺うことができる。
東大寺内の二月堂にある井戸「閼伽井」から水を汲み、大仏ではなく二月童の御本尊である十一面観音に捧げるのである。
この閼伽井という名は、二月堂の裏山で、役小角が創始した閼伽井山に由来する。
役小角が創始した山に行基が天地院という神仏混淆の山房を開き、その名を取った井戸の水を東大寺の観音様に捧げる。

そして、「お水取り」の儀式の際に全国の神の名を読み上げるのだが、東大寺の僧侶に真っ先に呼ばれるその名前は

「金峯山大菩薩」

役小角、行基、東大寺、巨大大仏は「黄金」によって一本の線になって結ばれる。

おそらく、黄金はあっただろう。
海人族とその末裔である修験者達と最強の水軍が役小角、金峯山大菩薩、蔵王権現の名の下に金を守護していたのではないだろうか。
スッキリした。

◽️余談: 奴国の金印と金の岬
歴史の教科書でも有名な国宝、漢の光武帝から贈られたとされる漢委奴国王印の金印。
これが出土したのは、古代海人族国家、奴国があったとされる志賀島の叶崎(かなのさき)
当時の海人族は鉱山資源を求めて全国を巡り、黄金のあるところの地名を金とは言わず、隠語として鐘の峰とか鐘の崎とか呼び、同族以外から隠したとされる。
叶崎という地名は鐘の崎がなまったものだと推測され、奴国崩壊前夜、金印の隠し場所の暗号として鐘の崎という地名を残した。

カナノサキ…カネノサキ…キンノサキ…
キノサキ…
城崎…
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