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完璧主義な自分とうまく共存するには

いつからだろう

完璧主義な自分とうまく共存できるようになった気がする

多分それは

本質や自分の信念を貫くために“必要な厳しさ”

なのか

自分の可能性や行動範囲を“縛り付けてしまう”厳しさ

なのか

少しずつ線引きができるようになってきたからだと思う



誰よりも完璧で、自分が1番いいと思ったことを信じ続けて知らぬ間に完璧主義になっていた高校生の頃、私は“自分を含め”誰かに優しくできていたのだろうか


そういう記憶があまりない

食事も寝る時間も練習も、常に自分を縛り付け、目標を叶えるために常に欲を抑えて、厳しくあり続けようとしていた

もちろん全てを縛りつけていたわけではない

ただ
「本質を貫くための厳しさ」
「自分の選択や可能性を縛り付けてしまうもの」

との線引きが当時は分からなかった上に、全てが正しいと思い込んでいたし、思い込みたかったのだと思う

完璧というものを求めれば求めるほど、達成できなかったことへの苛立ちやストレスも大きく、自分自身の可能や本質に制限をいつのまにかかけてしまっていた


線引きができるようになったのはいつからだろう

多分専門学校に入学した頃だったと思う

なんでも食べていい

太ってもいい

運動しなくても、夜更かししてもいい

そんなふうに解放してみた

食で見てみると特に分かりやすく

競技から離れて必要では無くなった食事制限から自分を解放してみると

確かに太った、しっかり身について、丸くなった

でも誰にも怒られなかった

許さない人という人は誰もいなかった

そもそも許してなかったのは

自分”だけだった

自分だけが自分自身を許せず(認めず)、自分を縛り付けていたことに少しずつ気がついて行きました

これしか食べちゃいけない

から

なんでもたべていい

に解放してしばらくすると

制限していた時ほど、食に対して欲というものが落ち着いた

好きなものをいつでも食べられる環境に自分を置いてみると、ストレスも食べることも落ち着いた

食の縛りというものが、食べることに対しての選択肢を狭め、細く脆い軸になっていたため、簡単に壊れやすい状態になっていたんだと思う

今は選択肢が増えた分、選択肢も多く、太く柔軟な軸になった分、食というものを心から楽しめている

楽しめているからか、過食もなくなり、適正な量で満足できるようになった

こんなふうに自分の本質や信念に影響が出ない程度の厳しさを解放してみると

いろんな見えなかったところが見えるようになる

解放する→隙間(余裕)ができる→アイデアが浮かぶ→余裕がある分行動に移せる→可能性が広がる

こんなサイクルが少しずつ最近はできるようになったと思う

完璧主義な自分と共存するには、線引きを見極める

というのがヒントなのかもしれない

狭い完璧の軸ではなく、太く柔軟な軸を作れればもっと可能性も視野も幸せを感じる範囲も広がる

そうやって今日も好きなものを美味しく食べて自分の活力にする

今、完璧にやろうと、やってるはずなのに苦しさやもどかしさを感じる人に届いたらいいな

さて明日も頑張りますか◎



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