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何者でもない人のバースデー

 今日は22歳の誕生日だった。誕生日だからといって、特別な日になるわけではない。眠たい中起きて、いつもより少し混雑した満員電車に乗り、仕事をして、少し贅沢に一風堂のラーメンを食べ、授業を受けて帰る。そんな1日だ。

 私にとっての誕生日は365日の中で1日だけだけど、他の人にとってはなんてこともないただの火曜日の今日。こうしていつもどおりの日を送ると、私ってほんと、何者でもないなって思う。

 なんでもない、平凡で、教科書に名前がのるわけでもないただのひとりの人。それを20代になってから実感する。電車の乗り換えのとき、たくさんの人が同じ方向に歩いて、私もその中のひとりでいるとき、どうしてもやるせなさを感じてしまう自分がいた。

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 お昼休憩のときにLINEを開くと、おめでとう、のメッセージが送られていた。家族から、友だちから、私が好きだって思う人から連絡が来ていて、とても嬉しかった。「ハッピーバースデー」はまるで魔法みたいだ。おめでとうと言われるたびに、ありがとうと言いたくなる。

例えば俺は 君が生まれた事を祝福したい
この世に生まれて 今日まで生きている事を
これからも健やかであるように
祝いのかたちで祈っているわけだ

藤のよう「せんせいのお人形」51話より

 何者でもない、と言うけれど、それでも誰かの人生の中で、今日が私の誕生日だと知っていてくれる人がいるというのは、とても特別なことなんじゃないか。

 最近、七五三で忙しいという神社のお手伝いしにいった。巫女の仕事の中で、本殿のガラス戸を閉める作業があった。それまでたくさんの祈りを受け取ってきた神さまの前で、ガラス戸を閉めていく行為がなんとも得難い経験だった。

 私はただの一人の人間で、だけど、この手がガラス戸を閉めたように、確実に何かを動かしている自分もいることに、気づき始めている。休憩中に会話したこと、接客する中で相手が笑ってくれたこと。なんでもない自分が、誰かの一瞬にいたこと、それが、とてつもなくすごいことのように思うのだ。

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 誕生日を迎えるたび、私、まだ生きてるって感じる。あんなにつらかったし、苦しかったのに、まだ生きてる。一回、本当にいなくなってもいいと思った先で進む今は、なんだかエピローグみたいだ。

続きを進む恐怖の途中 続きがくれる勇気にも出会う
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて

BUMP OF CHICKEN - HAPPY

 エピローグには幸せがつきものだろう。今、私がそうだとは言い難い。けれど、明日は久しぶりにずっと見たかった映画を見に行こうかとか、今日ご褒美に買ったお菓子を食べようかとか、そういう小さい約束みたいなものがあるから、私はなんでもない誰かのままで生きていける。

 私の素敵なところを見つけてくれて本当にありがとう。エピローグならありがとうだってふさわしい。もしもあなたが私を素敵だと言うなら、そうやって素敵だと思ってくれるあなたが、誰かに誇れるようなキラキラ輝く気持ちを持っているのだと伝えたい。

 そして、よくここまで頑張ってきたね、私。ほかでもない私が私に、祈りを込めて、ハッピーバースデーの魔法を送ろう。

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