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飲み込めない言葉、言葉にできない風景

 「病んでるね」と人に言われたとき、「これが病んでいると言われるんだ(病んでいるという言葉に括られるんだ)」と思った。何気なく言ったその友人の言葉が、ずっと喉に引っかかっている。うまく飲み込めないのだ。病んでなんかない、という抵抗でも、どうしてそんなことを言うのだろう、という困惑でもない。言われたときに感じた瞬間の、私の状態は病んでいるという言葉に含まれるのだ、という納得の手前の気持ちのままで、なんとなく過ごしていた。

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 『ゆびさきと恋々』という漫画を読んだ。主人公の幼なじみの描写を見て、好きを伝えるのは難しいよなぁ、と感じる。少女漫画にはよく「自分の方がずっと前から好きだったのに」みたいなシーンがあるけれど、私的には「それがなんだってんだ」と思ってしまう。前から思っていたからといってその気持ちがライバルの気持ちより勝っていることなんてないし、思っていた時間が長いからといってその重さが逆に嫌になることだってあるだろう。

  それでも、読み進めていくうちに「あぁ、好きと言って済むような気持ちは〈好き〉ではないんだな」という考えがふと浮かんだ。好きと伝える、それで感情が収まるのであれば、最初からそれは〈好き〉ではなかったのではないか。その人を考えてしまって仕方ない、どうしようもないことで悩んでしまう、見るだけ話すだけで嬉しくてたまらない、そんな理由もない高揚を表すのは難しい。でも伝えたい。だから「好き」という言葉に一応当てはめたのであって、「好き」と言って済むのであれば、そもそも〈好き〉が生まれ持った意味から外れてしまう。恋愛の物語が世の中にあるのはそのおかげなんだと気づいたのだ。

 言葉というのは、ある概念やモノの仮の宿りでしかない。〈好き〉という概念をいれた器が「好き」という言葉なら、その器に入りきるような〈好き〉はない。器に入るのであれば、きっとほかの言葉でも表現できてしまう。言葉は存在するものを伝える簡易的な手段であって、そのものを表すには言葉は簡潔すぎる(概念を入れた器を見ることによってその概念が作られたり見方が変わったりするという言葉が持つ力という側面は別として)。

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 私は確かに「病んでいる」のだと思う。けれど、その一言で済むような気持ちは持ち合わせていない。誰かが私を言う場合はその言葉を使ったっていい。それでも、私だけは、その言葉を簡単に使ってはいけない。私が持っているのは器ではなく、器に入っている概念だからだ。友人に言われたその言葉は、間違っていない。けれどどこかで、自分の存在を揺るがすような気持ちを器だけのように見られた気がして、寂しさを感じていた。それは他者とわかりあえない潜在的な寂しさと似ている。私にしか私の〈好き〉や、〈病んでいる〉私はわからない。

 世の中にあるたくさんの言葉が好きだ。けれど、その前か後かにある、言葉にはできない風景も忘れたくない。その風景が変わっていくこと、そしていつか見えなくなることを私はもう知っている。だから、喉に引っかかった言葉をすぐには飲み込まない。言葉は誰だって使えるけれど、風景は私だけのものだから。

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