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【感想】モネ 連作の情景

 「印象派」なんて聞いても私はちっともピンとこない。好きとか嫌いとか以前にわからない、というのが正直なところ。

 じゃあなぜ行くのか、と言われれば、たぶん知りたいのだと思う。わからないけど、好きという人も多い理由は一体何なんだろう。

 そんな「印象派」の代表格とも言えるモネの展示を見てきた。平日午後なのにすごい人。一人で観に来る人もいれば、友人と、カップルで、着物姿の人も目立った。

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 印象に残ったのは、最後に展示されていた作品だった(75 薔薇の中の家 The House amid Roses / 1925年 / ジヴェルニー)。最後のコーナーは写真撮影ができたのだけれど、その作品はできなかった。

 モネは晩年に白内障を患い、視力を失いながら作品を書き続けたという。そして初めてモネの作品を間近で見た私でも思った。

 全く違う。

 たしかに、印象派に見られる筆の跡や、色をむやみに重ねない明るさは感じる。けれど、睡蓮、芍薬あたりから使う色が変化しているような気がするのだ。ピンクや紫といったビビットなカラーが、花に、もしくは花の周りに存在する。最後の作品の空を見てキュッと胸が締め付けられる。こういう空を描く人だっただろうか、と。

 それはまるで、私とは違う世界に足を踏み入れた人しか見えない、語れない領域のようだった。その感覚は、認知症を患った人と対面したときのそれに近いものだ。

人は、記憶を失っていく。でも、そのプロセスの中で、その個人は、痛いほど、悲しいほど、愛おしいくらいに、その人であり続ける。

川村元気『百花』解説より

 モネの絵画はモネが見た世界をそのまま私たちが見れているようなものだ。その土地の景色、それを見ている人が体感するであろうもの――匂いや空気感、訪れたときの気持ち、風の感触と太陽の明るさ、霧の中の肌の心地――そういうものが、モネの絵画にはあると思う。それは色合いで、筆の跡の残りようで、絵の明るさで表現されてきた。

 なのに、最後の絵画群は「これは本当にあのモネの絵画なんだろうか」と思わされた。ジヴェルニーのあの庭で、きっとモネはそのままを描いた。それでも私にとっては、これまでのモネとは違うように見えた。

 最後の作品を見たとき、すずめの戸締まりのワンシーンを思い出していた。廃れた遊園地の観覧車、すずめがあの世を見てしまうシーン。こちらと、あちらが分かれているのが明確にわかるその一幕を、初めて見たとき私はずっと泣いていた。まるで、死の瀬戸際にいる人の手のほんのりとしたあたたかさのような光景。

 生きている私には見えないものがあって、死への途中に見えてくる何かもある。モネのあの作品は、そんな気がした。

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 展示を見てモネがすごい好きになった!と一変したわけではないが、こういう気づきを得られただけで行った価値があったと思う。一人の画家を追うとこんな気分にさせられるのだ、と。

 私が知らないことを、言葉じゃないところで見せてくれる絵画が好きだ。時間が経って、またあの絵に向き合うとき、私はなんて言うんだろう。

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