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だから私は写真を撮る

幸せってね
規準がないにもかかわらず
考えれば考えるほど思い描いちゃって
具体的に表してしまうと遠のいていく物だと思うの

 この動画を見たとき、私ははっとした。概念とは、基準がないものだ。具体的に表せば遠くなってしまう、確かにその通りだと思ったのだ。

 基準がないのに、私はいつだって迷っている。どうすればいいのか、どうやって動けば正解なのか、その答えはないことをどこかでわかっていながら、動けない理由を探し出すようにして、具体的に表しては投げ出してしまう。こうはなれない、と。

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 最近、自分が心躍った瞬間に写真を撮ることが好きだ。美しいと思った風景、いいなと思ったもの、そういったものを写真に収める。振り返りながら、なんでこれを撮ったのだろうとか、やっぱりこれはきれいだとか、そうやって写真を見ていると、自分の「好き」がつまったそれらの写真が愛しく思える。

 写真を撮るということ。自分の意志で、そのシャッターボタンを押す。写真家ではないから、どうしても撮らなければならないわけではない。構図も写りのよさもあまり気にしない。けれど、そうやって写真を撮っていると、世界の中の一員になっているような気になり、なおかつ、ここにいることを許されているような気になっていく。

 「私とはなんなのか」「私とはどうあるべきなのか」――そんないろんな「自分」を形づくるものを言葉で説明しようとして、できなくて落ち込んでしまう。けれど、きっと言葉で探したって自分はどこにもいない。私のこの腕も、顔も、目の色も、唇の形も、手指の感じも、きっと私であって私ではないから。私が考えることだって、言葉という誰かに習ったものを、誰かの価値観から生み出されたものを使っている時点で、私がまぎれもなく私であるという証明には使えない。

 自分がどこにもいないということを知ってなお、私は進まないといけない。だからこそ、私はシャッターを切る。ここに私がいたということ。私が撮った、私の意思で撮った写真を見て、私は私がここにあることを知っていく。

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 この世界には、どんなに言葉を尽くしても、「言葉」を使う時点で伝わらないものがある。その代表的なものが、概念であるのだろう。概念とは言葉で表すことができない。一つひとつの積み重ねでできている。「自分」という概念もまた同じだ。「これが私の気持ち、これが私の身体」――そうやって差し出したものは曖昧すぎて怖い。「私は○○を幸せに思うよ」「私は○○だから寂しいよ」……、そんな簡単に言葉にできるものなら、概念なんてものはもうなくてもいい。だから私は写真を撮る。私が好きな場面が、光景が、ものが、コレクションのように並ぶそれを見て、自分だ、と思えるように。どこまでも輪郭がなく、この世界に溶け込んでしまいそうなとき、「この写真が撮れるのは、ほかの誰でもない、自分だけなんだ」と理解できるように。

 具体的に表してしまえば、遠ざかってしまう。だからこそ、「これが私の見える世界です」と手渡せてしまう写真は、とても好きだ。

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