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3月28日(土)19:00@ロームシアター京都

灯らなかった分の劇場の灯はどこへいったのかといえば、その日劇場に集まるはずだった人たちのなかで今も明るく呼吸しているのだろうなと思い、『灯を預かって個々にいる』と題して個人的な客席のインタビューを細々と行っていきます。あなたはどんな人で、その劇場に行くまでにどんなことがあったのか。最近どう? インタビュイーは匿名、ほぼ聞き書きです。

2020.04.01

まだ完全なリモートではないんですよ。会社から「在宅勤務してほしいけど、出社しないとできない仕事もあるよね」って言われていて。でも、しょうがなく会社に行く理由があれなんです、郵便物は会社から発送しなきゃいけないとか、そういうのばっかりなんですよ! それは別に出社しなくてもよくない? とか思っちゃう。

私は出版社で書店さんへの営業をしています。出版社って、安全なところから電話やメールで「本を仕入れてください」って書店にお願いしてモノを送り込むことはできるんですけど、それを出荷しているのは倉庫の人で、それを輸送する問屋や物流の人がいて、売っているのは店頭に立つ書店員さんです。今、それがすごく嫌なんです……。しかも、出版社は出荷したらすぐその本の代金を請求できちゃうんですよ。書店は、お客さんに買ってもらえるまでお金が入らない。そうなると現金が足りなくなっていくのは、真っ先に書店じゃないですか。

だから、書店さんに連絡するときは、店にも全然行けずにお願いばっかりしていてほんとに申し訳ないけれど、できることがあったら何でも言ってみてください、と言うしかなくて……。いろいろとモヤモヤしながら仕事してます。

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行く予定だったのはダムタイプという団体の公演で、日時は3月28日の土曜日、19時の回でしたね。劇場はロームシアター京都というところです。タイトルの《2020》は、ニイゼロニイゼロと読むのか、ニセンニジュウって読むのか。2020年のことではありますよね、きっと。

私もダムタイプのことはリアルタイムで知ってるわけではないんです。記録的な部分で知っていることを話すと、パフォーマンスをやっていた時期というのは80年代から2000年代まで、なのかな。複数人が入れ替わり立ち替わりしていくユニットだったので、ここ最近も個人が作品を発表したり、団体としては美術館でインスタレーションを発表することはあったんですけど、演劇の上演っていうのは2009年を最後にやっていなかったんです。だから、私にとっては伝説の団体ってイメージだったし、まさかその新作を観ることができる日が来るとは思わなくて、発表があったときは驚きました。



私は大学で文学部にいたとき、メインは小説の勉強をしていたんですが、演劇を観に行くのが好きで、演劇の授業も取ってたんです。で、現代演劇の授業で先生が、大学の企画でダムタイプの《S/N》という作品の記録映像の上映会とシンポジウムをやるって教えてくれたんですよ。

そのときは全然ダムタイプのこと知らなくって、演劇の記録映像も、私はあんまり好きじゃなくて。だって劇場にいるときの自分の視点とカメラワークは全然違っちゃうし、映画と違ってカメラワークが作品そのものに含まれるわけじゃないから、しっくりこなかったんです。

でも、先生が「絶対に観ておいたほうがいい、これを逃すとなかなか観られない」と言うので、じゃあ行ってみようかなと。あのとき勧めてもらわなかったら、上映会のことは気付かなかったかもしれない。それで、よくわからないまま観始めてしまったんですよ。



ダムタイプって、演劇やインスタレーションで映像や電子音、プログラミングを使う、メディア・アートの最先端を行っている人たちだったんです。だから《S/N》も、単なる記録映像じゃなくって、映像として良い作品になるように編集が施されていたこともあって、意外とすんなり観られたのが驚きでした。かといって映像化ありきの作品というわけでもなくて、確かに舞台の上に人間がいたことの記録なんだな、と感じた覚えがあります。

《S/N》はセクシュアリティや国籍、障害とかについての話で、役者が自分自身の話をするという体で進んでいきます。映像を観ているあいだは、それが本当なのか嘘なのか確認できないじゃないですか。画質も粗いし、現実を再現する精度が高いってタイプの映像でもなかったんだけど、やたら生々しくて……。

そのなかに、古橋悌二という、《S/N》の構成や演出もやっている人が、自分のホモセクシュアルと、HIVに感染した話をして、セックスワーカーでありドラァグクイーンもやっているブブ・ド・ラ・マドレーヌさんがそれを聞いているシーンがありました。

存在は知っているけれども、私個人の生活で会う機会がないから会えていない人、会うことができない人はこの世にいっぱいいるんだけど、そういう人たちに実体を持って会えたような感覚があって。しかもそれが、過去の演劇の映像で感じられるのは衝撃的でした。

《S/N》では映像でテキストを流す演出も多かったし、強度のある言葉がたくさんあったんだけど、そのなかで……正確な引用が今できないんですが、「あなたとの愛を発明するのだ」、というフレーズがすごく印象に残っています。

セクシュアリティとか、他人との関係だったり感情だったりっていうものには、一応「友情」とか「恋愛」とか、世間一般の枠組みがあるけれど、私は前からそれに違和感があって。その人その人に対しての自分の感情や関係っていうのは、既存の枠に簡単に当てはめられるものじゃないなと思っていたんです。それを「あなたとの愛を発明する」と、すごく格好良い言葉とパフォーマンスで言い当てられた! 本当に、もう、電撃を受けたようでした。

だから《S/N》は、マイノリティの話というわけじゃなくって、ひとりひとりの持っている、相手との関わり方の話なんだなと思ったんですよね。身体はどうしても自分に付きまとってしまうし、どうにもならないものだし。例えばホモセクシュアルだとか日本人だとか、他人からも記号を付けられちゃうけど。自分の言語で、自分の身体や、相手に向ける感情、関係性を獲得していこうとする演劇に見えたんです。

それまでも演劇が好きでいろいろ観てきましたけど、人間の生身の身体がやっているのを、ここまで強く意識したのはたぶんこのときが初めてです。「ああ生きている人がやってるんだな」っていう。この公演を目の前で観ていた人がいるんだとも思ったし、その後のシンポジウムで古橋悌二さんがHIVで亡くなられたことや、その後も上演は違うかたちで続いていたというのも知りました。だから、映像で観てるのがすごく悔しくて……。リアルタイムで観たかったなあ、もっと早く生まれていたかったなあって思いましたね。



《S/N》では最後のシーンで、マドレーヌさんが、股間からヒュヒュヒュヒューって万国旗を出すんです! そして、これは今の自分が思ったことなのか、そのシーンを観た当時の自分が思ったことを、今ようやく言語化できるようになったのかは全く区別が付かないんですが……それって、あっぱれというか、すごい祝祭だなって。

万国旗って、万博のときに飾られて、その名残で運動会とかパーティーとか、とにかくおめでたいところに飾る存在になってるじゃないですか。根拠のないおめでたさの象徴である一方で、この世界には国という枠組みがあるという象徴でもある。その枠組みに当てはまらない人はどうなっちゃうんだろうって発想が、万国旗には抜け落ちていて。でも、そんなものがシュシュシュシュってマドレーヌさんの股間から出てきてしまうのが、カラッと強くて、明るいなあと思ったんだよね。

女性器から万国旗が出てきているっていう馬鹿馬鹿しさは、万国旗の持つ意味合いを無効化している気もしたし、女性器から万国旗が出てくる状況の主体性ってその女性側にあるんじゃない?って。ここには、万国旗を出すことができるような身体をコントロールしているマドレーヌさんに主体性があるんだなって思ったんですよ。

で、そういう、ただ単におめでたいし、意味もなく馬鹿馬鹿しいし、でも国境とか性的なものへの差別を無効化していくような、そういうパフォーマンスをしているところを、自分で自分にメイクを施して、カツラを被って、好きな格好をして、自分を体現した古橋さんが、ゴムボードに乗って渡っていくんです。

それは、自分の身体とか、セクシュアリティも超えて、行きたいところに自由に行っているように見えたし、HIVによる生死の境のこともやっぱり考えてしまって。

なんか、死ぬって寂しいことだったり、残念なことのように語られがちだし、私もそういうふうに考えやすいけど。古橋さんだって、死ぬことは望んでいたわけではないだろうけど。それでも、舟はジタバタしながらも軽やかに泳ぎ出て行ってしまったというか。ポジティブに見えたんですよね、死ぬことが。

今回、《2020》を観ることで、自分のなかでのダムタイプを捉え直したいと思ってたんです。東京都現代美術館の個展に行って、過去の映像作品もNTTインターコミュニケーション・センターの特別上映で全部観た上で、もう一度《S/N》を観て、それから初めて生で新作を観ることで、自分にとってダムタイプはどういう存在なのかがわかるのかなって期待はしてました。特別上映も会期の途中で中止になってしまって、最終日に予約していた《S/N》も観られなかった。

でも、やるはずだったけどできなかったということが、その公演を特別なものに押し上げるというのは一切ないと思うし、そうしちゃいけないとは思ってます。中止になってしまったのは、この先の上演の目処がつかなかったから「中止」って言い方をせざるを得なかった可能性もあるし、《2020》というタイトルからすると、今このときじゃないとできない作品だからというのも想定できる。

だから、この先も上演の機会がないかもしれないとは考えるけど、絶対に、必ず、上演してほしいとも強く思えない。観たいけど、一旦中止になってしまった作品を、しかも外的な、抗いようのない理由で上演できなかった作品を、あらためて上演するということ自体が、作品の持つ意味合いを左右してほしくなくて。でも、中止になったままで「幻の作品」として扱われるのも嫌で。そんなのは悔しくて。

だから、何事もなかったかのようにしれっと上演されて、それを、まっさらの状態から、中止されたなんてことは度外視で、当たり前のように観て、作品を受け止めたいというのが今の気持ちです。この先、世の中がどう変わるかによって、また自分の考え方も変わっていくんだろうけど……。それが、やむを得ず上演できなかった作品や、作品に関わる人たちへの、自分なりの誠意の示し方というか、敬意なんだろうと思っています。でも、そういうバイアスを全く入れずに観るとか無理だから! 何をどう頑張っても人間だし、生きている時間が続いているとそれはできないから。できないけど、次の機会も頑張ってチケットを取ろうと思います!

好きな場とか機会を提供してくれている人たちが、理不尽に生活の危機にさらされているのは耐えられなくて、そのために自分がやれることをやりたいなと思う一方で、いや私の前に国がやれよと怒ってるし、今はそういうことばっかり考えちゃうんだけど……。

あ、あとね、最近は新しい服を探してるんですよ。コロナが起こる前、半年くらいずっと仕事が忙しくて、服を買う余裕がなくて。忙しすぎて、身に着けるものを考えることがコストになっちゃってたんですよね。今は服をゆっくり選ぶ時間ができたから、自分がどんな服を着たいのかとか、出かけるときにどういうふうに着飾っていたいのかをランウェイの写真とか見ながら考えてます。私、浮かれた服買うの好きなんですよ! 春ですしね。演劇観るときの服だから、まず、温度調整がしやすくて、なおかつ横に広がりにくいものにしたいですね。