正当化の怪物

思い返せば、数年前までは、いちいち通りすがりの他人に腹を立てたりしなかった。
忘れてるだけで昔からそうだった?とか、
老けたから?とか、
都会にもまれて心が荒んだから?とか、
それらしい理由を色々ならべていたが、最近考えて一番しっくりきたのは、
「腹を立てることを正当化しているから」という理由だった。

数年前から、話したことはおろか、顔も見たことのない他人に、
すれ違いざまいきなり怒鳴られたり、容姿の悪口を言われることが増えた。
実際には、もっと前からあったのだろうとは思う。
変な人はどこにだっているし、自分に対してでなくとも、そういう行動をしている人はけっこう見かける。増えたと感じる前までは、そんな理不尽が頻繁にあることは知らず、認知していなかっただけなのだ。
ところが、ある日を境に、もしくは何かをきっかけに、はっきり感じ取るようになった。
そこからは急加速的に敏感になった。過剰なくらいに。

「自分には理不尽に見える行動にも、何か理由があるはずだ。」
「自分にも何か原因があったかも知れない。」
と思ってるうちに、何となく「自分が悪かった」という思考になっていった。
それ自体はきっと悪いことではない。

問題は、「理由があればすれ違いざまに怒鳴っていいし、悪口を言っていい」といういびつな思考に変形してしまったことだ。

以前、駅のホームで人とぶつかったことがあった。肩と肩がぶつかるというレベルではなく、真横から何か大きな衝撃を受けて、驚いてそちらを見たら人だった、という感じのぶつかり方だった。
当時は、確かにびっくりはしたが、特に何も気に留めていなかった。
だが、ある日、SNSで「駅にはわざと若い女性にぶつかる男がいる」としたうえで、激怒している文章を見かけた。そのとき、みるみる当時の記憶がよみがえり、「もしかしたらあの日、あの駅でぶつかった男性も、わざとぶつかってきたのではないか。」「思い返してみれば、普通はあんなぶつかり方をしない。」「よく考えたら謝りもしていなかった。」と一気に批判的な気持ちが噴出した。

もし、SNSでその主張を見かけなかったら、私はいつかの知らない男性に対して、わざわざさかのぼって怒りを覚えることはなかっただろうし、ましてや今日までそんな出来事があったことすら思い出さなかったはずだ。

誰かが怒っていることが、自分の怒りになってしまうのはなぜなのだろうか。

なぜそんなことを思い始めたかというと、ある日、話したこともない赤の他人に、「嫌なやつ」と口に出して言ってしまったからだ。
口に出してから、恐ろしくなった。私は、かつての自分に怒鳴り込んできた、悪口を言ってきた、あの怪物になってしまったのだ。
その人に対して不快な感情を抱いたのは確かだ。本来なら、ちょっと嫌だな、と心の中で思って、それで終わりなのだ。
どこかで、不快な気持ちにさせられたから、自分もやり返していいんだ、と、正当化していた。
現に、口に出してしまった直後は、自分のなかでそのような言い訳ばかりをしていた。「あいつが悪い。」「自分の虫の居所が悪かった。」という理由をつけていた。


わたしは、そんな人間になりたかっただろうか。

「知らなければよかった」という考え方もあるかもしれないが、何かを知るかどうかは、自分で選択することができない。この先、まだまだ知ることはたくさんあるだろう。
知ったうえで、自分がどう生きるか、取捨選択していかなければいけない。


弱い自分が作ってしまった怪物だから、自分自身で向き合っていこうと思った。

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