見出し画像

コンビニと迫害

相変わらずバイトは苦痛だ。

笑いたくもない場面で笑い、言いたくないことを言い、なんとなく呼吸がしづらい空気が全面に流れている。今日も迷惑客の相手をし、つまらない同僚の話に相槌を打つ。流れる時間の速度は遅く、ただただ無駄な時間が通りすぎている。やっとの思いでレジを終えると、次第に感情のない音声がスピーカーから流れ、店が閉まることを必死に訴えている。
いつも通り、疲れてなさそうな同僚相手に「お疲れ様です」と頭を下げて労働を終える。
冷たい微風が僕の心を煽る。ここ最近は寂しさと虚無感が五分五分の割合で共存している。「何をしてもダメ」というわけではないが、ずっと「何もしてもダメ」という状態でもある。こんな、ぐちゃぐちゃな状態。
耳も目も内臓も、どこか重たく不調である。
この状態が若さという言葉で形容されれば良いが、何十年生きても「何をしてもダメ」が心の中に居続ける気がしてならないのだ。
そんな恐怖を抱えながら、バイト終わりに向かう場所は家ではなくコンビニだ。バイト先から一番近い某青色のコンビニへと僕はいつも赴く。
いや、厳密に言えば僕が向かっているのはコンビニの喫煙スペースだ。駐車場に隣接された喫煙スペース。ただ灰皿が置かれている少し広いスペース。疲れたサラリーマンが死んだ顔でタバコをふかすスペース。
無論、未成年の僕はタバコを吸わない。喫煙スペースに入って、ただコンビニ本体で買ったコーヒーを片手に副流煙を浴び続けているだけだ。
このスペースが僕は好きだ。タバコの煙や匂いが好きというよりも、タバコを吸う大人の中に混じるのが好きなのだ。
背伸びしていると言われればそれまでだが、なんというか、日々禁煙の流れに迫害されているであろう大人たちと時間を共有することが、どこか癒しなのだ。仲間とまでは言わないまでも、少なくとも敵ではない。そんなシンパシーを僕は感じてしまう。

心の汚れとは裏腹に素敵なスーツを身に纏うサラリーマン、頭が少し寂しくなった爺さん、何かを主張したいであろう金髪の女。

みんな何かに弾かれ、何かに迫害され、何かに妥協して喫煙スペースにいる。タバコとはどうやって出会ったのか、奥さんには反対されているのか、彼氏はいるのか子供はいるのか。一つ一つ聞いてみたいことがたくさんある。たくさんあるが、誰にもそんなことは聞かずどうでも良いふりをしている。ただ妄想する。人の人生を。ただ妄想して勝手に同情する。どうせこの人たちは孤独を抱えている。何人かの孤独が集まる喫煙スペースは僕と少し相性が良い。みんな寂しい顔をしているが、他人のことはどうでもよさそうだ。仲間だの敵だの味方だの、そんなことは決して意識せずにただ突っ立っている。そんな孤独が許容されるこの場所が好きだ。

果たして僕が二十歳になった頃には喫煙を始めているだろうか。正直めちゃくちゃ吸いたい。吸いたいが、祖父を肺がんで亡くしているので少なくとも家族には言えないなと思っている。まあそこは自分の精神状態や心持ちと相談だ。
そんなことを考えながら適当な時間に帰る。あんまり遅く帰ると同居している祖母に申し訳ない。祖母と僕は真逆の人間で、本当に全てが合わない。全てが合わないからこそ尊敬できる箇所がたくさんある。そんな祖母を僕はあまり悲しませたくないのかもしれない。主人をタバコで亡くしているのにも関しわらず、孫がタバコを吸い始めるなんてそんな祖母不幸なことは無い。まだもうしばらくは、喫煙スペースで大人ごっこを続けるつもりだ。僕にはまだタバコ以前にしなければならないことがたくさんありますし。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?