終わらせるもの
ちょうど1年前の今日、離婚をした。
今思えば生きてるだけでも奇跡的で、どこか被害者意識もまだ正直残っているけど、きっと長い年月をかけて絡まってしまったものを、私の代で終わらせられるものは終わらすと決め、自分が選択してきた結果だと腹を括る。
昔に比べると、随分と「水に流す」ことが
上手く出来るようになってきたと思う。
さらさらと滞りなく流れていく体感は、心地が良いし、前よりも健康でいられている。
ただ40歳になり、離婚を経験し、人生の終わりも少し考えるようになって、このままさらさらと居続けることに、なんというか「寂しさ」のようなものもあり、自分自身とそして誰かや何かと、もう一度、熱感を持つ交わり方をしたい、そう願っている自分もいる。
「自然も人間の一部」を活動のテーマにしてきたけれど、私自身が「人間」からどこか距離を置き生きてきたのではないかと、最近になって気がつき、はっとした。
それは、自分自身の中にもある残酷さや冷酷さ、怒りから目を逸らしたかったからなのか、どこか周波数のようなものがズレてしまっている気がして、他者、社会に受け入れてもらえないのではないかという怖さからなのか。
自然そのものの恐ろしさからなのか。
最近は、今まであまり接点の無かった人達とも交流していて、新しい世界をのぞくようでとても楽しい。
「別の世界」に住む人と勝手に太い境界線を引いていたことに気づく。
他者のこと、そして自分自身のこと、
分かっているつもりになってしまっていたことが沢山あり、その「つもり」がいつのまにか小さな声、繊細な感覚を押し殺し、どんどんと積み重さなっていき、いつの間にか見えないものになっていく。
だけど今、小さな声だったものを外に出しはじめたら、バラバラだったように感じていたものが繋がっていくように感じていて、この先を自分の目で見てみたいと思うと、もう少しだけ頑張れる気がする。
繋がりは幻想かもしれないし、元々バラバラのままなのかもしれないけれど、誰かの創った「正しい物語」ではなく、自分で納得出来る小さな物語を紡いでいきたい。
まとまりの無い文章だけど、熱を持っているうちに残しておこう。
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