森についての雑文

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森だ。森の中を私は歩いている。フンババがかつて暮らしていた森。かつて焼き払われた森。その中を私は今歩いているのだ。


 開放感のある森だ。地面はところどころに陽だまりができている。枝から落ちた葉がかさなりあっていて、地面は柔らかい。ただ柔らかいせいで歩くのに疲れるということもできる。

 森なんてどこにあったのだろう?私は問いかける。誰かに問いかける。森の闇の中に声はしかし吸い込まれて消えていった。

 私は言葉を探している。私は声を探している。森の中に私は言葉を探しにきたのだ。口にすべき言葉を。

 あるいは音楽を。


 私はいつのまにかブーローニュの森の中に来ている。森から森へ、私は時空間を越えて旅をする。旅をすることができる。私は旅をすることを運命づけられているだけのことであって、別に旅をしたいと望んだわけではないのだ。


  そう、私は言葉を探すたびに出ているのだ。そして今パリの郊外であるブーローニュの森に来ている。ブーローニュの森にはどんな木々が植えられているのだろ うか?広葉樹か?針葉樹か?照葉樹林ではない気がする。パリはどちらかといえばバルト海に近い。なんとなく広葉樹林ではないかという気がしている。広葉樹 林の隙間に、ちらほらと針葉樹の木がまじっているのだ…


 そんなことを気にする私はおかしいのであろうか?

  私はブーローニュを離れる。そしていつのまにか私はパリの街を歩いている。エッフェル塔のそばをぬけ、アメリ通りを過ぎ、廃兵院まで行く。私の心は煤けて いる。心の底で確か何かを燃やした。煙は喉を通じてもくもくとのぼってきて、鼻と口から外へと出ていってしまった。心も、喉も口も目も鼻も煤で真っ黒だ。 真っ黒なのだ。


 いつのまにか足は廃兵院へとむいていた。私は廃兵院が好きだった。それがどんな施設なのかということは知る由も なかった。調べるつもりもなかった。私はただその言葉の感じが好きなだけだったのだ。何かの通気孔の横を通る。なんだかわからないがパンの腐ったような匂 いが風にまじっている。乞食が寄ってきて、何かをねだった。僕はガムを丸ごとくれてやった。意外にも乞食は両手をあわせて感謝の意を述べた…

  廃兵院。とはいうが今となっては廃兵はいないのだろう。今ではその施設は単なる観光名所と化している。古代の貴族の扮装をして喜劇を演じる役所のごとき代 物と化してしまったのだ。石で出来ている建物はなかなか崩れ去ってはくれない。それを作るためには多くの奴隷を必要とした。それだけの建物を作るだけに必 要な量の石を伐り出すために大量の奴隷が必要だったし、実際に石を組み立てて建築物にするためにもおそらく多くの奴隷が必要だったのだろう。それは奴隷と いう名前では呼ばれなかったかもしれない。労働者だとか、義勇兵だとか、嘔吐したくなるような響きを持つ言葉で呼ばれたのかもしれない。しかし奴隷であっ たことにはかわらない。本来自由に空を飛ぶことができるはずの翼をもがれ、地を駆け回ることができるはずの足に枷をはめられ、十分な休息と賃金を与えられ ずに馬だかロバだか牛だかのように働かされていたのなら、それはまぎれもなく奴隷だったのだ。とにかくそんな廃兵院。そのような廃兵院がある。私の目の前 にどっしり腰をすえてパリの街を、セーヌ川を見下ろしている。それが廃兵院だった。しきりにエッフェル塔とウインクを交し合っている。サンジェルマン通り のあたりの高級住宅街にも奴は色目を使っているに違いない。


 廃兵院。しかしいい響きだ。廃れた兵の行き着く場所。兵の墓場。廃 れた兵。傷ついた兵。傷病兵。そんな男たちが最終的に行き着く場所。それが廃兵院なのだ。傷を負った兵、という言葉で思い出すのはセルバンテスとゲッツ・ フォン・ベルリヒンゲンである。セルバンテスはレバノンの海戦で片腕を失った。ゲッツは何かの戦いでとにかく腕を失った。戦いで腕を失うという経験をした という点では同じだが、その後は全く違う道を2人は歩んだ。セルバンテスは捕虜になり、数年たってからスペインに帰ってきた。セルバンテスには十分な補償 は与えられなかった。セルバンテスは自分の貢献に見合った地位が与えられたとは思わなかった。その後ずっと燻った生活を数十年も続けたあげく、50歳を過 ぎたところでようやく世に認められた。小説家として。人を楽しませる文章を書いて金を稼ぐ売文家としてセルバンテスは認められた。今でもセルバンテスを文 学者として尊敬する人はいるだろうが、彼を軍人として尊敬する人はなかなかいないだろう。彼が本当は何を望んでいたのか。腕を失ったことに対する補償とし て、本当は何を求めていたのかということを、後世に生きる我々は本当には知ることができない。

 ゲッツは腕を失った後もあまり変わらな かった。彼はなくした腕のかわりに鉄の腕をつけてくる日もくる日も戦いにあけくれた。腕を失ったことなど全く気にしていないかのようであった。彼はその武 勇のおかげで皇帝の信頼も厚かった。彼は気にくわないことがあると剣を持って馬に乗り、仲間を連れて戦いに出かけた。法律など彼は意に介していなかった。 そしてそういうことが許された時代であった。財産の譲渡や相続で問題が生じた場合、裁判ではなく私的闘争によってそれを解決することが騎士の中では喜ばれ た。あるいはそういうやり方で問題解決をすることが許されていた最後の時代に彼は生きていたのだ。とにかく彼は腕を失った後も、鉄の腕をかわりにつけて戦 い続けたのだった。

 廃兵院の前の広場を私は歩く。2人の軍人のことを考えながら歩く。蝶々が目の前をひらひらと飛んで いく。もぐらはいないかな?となんとなく呟いてみる。コートを着込んだ浅黒い肌の女性が目の前を歩いていく。僕は幽霊でも出てこないかな、とまた呟いてみ る。どこかで誰かがシャッターを切った音がきこえてくる。若い中国人のカップルがすぐそばにいた。彼らは手当たり次第に写真を撮っていた。私はその場を離 れた。セルバンテスもゲッツも、私の前には現れてくれなかった。廃兵は語らず、ただ暮れていく陽の光に廃兵院が陰鬱に照らされていた。

  多くの夢。西洋絵画。オルセー美術館と、ルーブル美術館。落穂ひろい、モナリザ、サモトラケのニケ、そしてミロのヴィーナス。古今東西の秘宝が数え切れな いほど集められているこのパリという街。このパリの街を放浪している内に私の体の中の何かは少しずつ腐り落ちていった。サングラスをかけた、長髪の、背の 高いブーツをはいたモデルが、私の後についてきながら、私のくさりおちた肉を拾っては食べていた。だから私が歩いている後の道は全く汚れていなかった…。 こんなことは現実ではありえない。幻想だからありえることである。私は気がつかない振りをしながら、そのままどこへ行くともなく歩き続けた。


  いつのまにか私はモンマルトル地区に来ていた。まだ女は私の後からついてきていた。もう陽は暮れて、あちこちの街灯に光が灯されていた。頭上には夜空が広 がっていたが、星はもちろん見えなかった。1つとして星は見えなかった。それはおかしな話である。北極星ぐらいは見えてもよかったはずなのに、しかし1つ たりとも星は見えなかったのだ。空には全くの漆黒が広がっていた。しかし蟹座だけは見えるような気がした…

 私はリュッ クサックをあさり、北回帰線を読み始める。適当にページを開いて、声をあげて英文を朗読した。すると段々吐き気がこみあげてきた。たちこまち私は道路の側 溝めがけて全てをぶちまけた。嘔吐物は真っ赤で、私の背筋は差さすがに凍りついた。しかしさっきブーローニュの森で手当たり次第に野いちごをつんでは食べ たことを思い出して、安堵のため息をもらした。…女は跪き、地面に手をついて私の嘔吐物を啜っていた…

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