蒋介石の北伐の流れ(東清鉄道についても少し)


 1926年7月1日には蒋介石が北伐宣言を発表し、1927年には上海クーデター(蒋介石主導の左派追放)が起こり、国民党と中国共産党は敵対関係になる。

 元々孫文は容共のスタンスをとっていたが、蒋介石は共産党を駆逐したがっていた。

 共産党に対する立場の違いから、国民党が南京国民政府(蒋介石)と武漢国民政府に分裂する。共産党の勢力が強かった蒋介石が武漢からまず上海へうつり、共産党員を弾圧(1927年4月12日上海クーデター)それから南京へとうつり、分裂が決定的になる。武漢政府は蒋介石の党籍を剥奪し、逮捕令を発した。その後一時停戦し、それぞれ北伐を行うことを決めた。

 1927年5月、南京国民政府(蒋介石)は北伐を継続し、山東省から張宗昌、孫伝芳ら北洋軍閥を追い払った。同じ頃武漢国民政府(汪兆銘)も河南省へ侵攻していた。

 1927年7月には武漢政府は南京へも兵を向ける。

 1927年7月15日には汪兆銘は武漢で国共合作の解消を実施、共産党員と国民党内の左派を追放した。以後共産党は地下活動に転じることになる。両政府の間の政治的対立点が消滅し、分裂が解消される契機になるかと思われたが、あくまで武漢政府は蒋介石の下野を求めた。

 8月、張作霖は張宗昌、孫伝芳(北洋軍閥)の南京侵攻を支援した。8月6日、蒋介石は徐州戦役で失敗し、徐州を失う。形勢の危うくなった南京政府は武漢政府との関係改善を模索。依然として武漢の要求は変わらなかったので、やむをえず蒋介石は下野するとの電信を発した。その後新広西派が中核となった部隊が孫伝芳を打ち破り、南京の情勢は落ち着いた。後に両政府は合流するが汪兆銘は下野を余儀なくされる。この頃すでに南京政府の実権は新広西派が握り、武漢政府の実権は唐生智が握っていた。合流したと思われた両政府はまた争うことになる。唐生智の方が旗色が悪く、武漢を放棄して湖南省へ撤退し、その後自ら下野してその旨を電報で発表する。しかし依然として配下の部隊を湖南省に留めて南京政府に対抗し続けた。そしてこの唐生智と下野していた蒋介石が連合するのである。1928年1月、新広西派は部隊を武漢から出発させて湖南省に攻め入った。その後色々あって唐生智の部隊は大敗する。彼の部下は次々と電報を発し、南京政府擁護を表明した。唐生智はすでに下野し、その後日本に亡命した。結局新広西派率いる南京政府勝利という形で両政府の戦争は幕を閉じた。

 その後この戦争を通じて何だかんだで復帰した蒋介石と、閻錫山、馮玉祥、李宗仁らは共同で北伐を行った。国民革命軍は河北、河南を攻撃占領する。6月4日、敗北した張作霖は北京を脱出、関東軍は彼を爆殺した。その後張学良は国民政府への従属を宣言した。


 この後蒋介石と新広西派が国民政府の主導権を奪いあうことになる。


 ここで北京落ちをするまでの張作霖の動きについても触れてみることにする。

 1927年4月6日に張作霖はソ連大使館への家宅捜索を実行する。丁度この頃南京事件が発生していたため、各国の共産主義に対する警戒心は高まっていたために国際的な非難は起きなかった。4月10日にはソ連大使が本国に召還され中ソ間の国交が断絶する。この時ソ連は張に圧力をかけるためにモンゴルに武器を集中させている。蒋介石による共産主義者弾圧である上海クーデターは4月12日に始まっている。

 
 1928年4月に蒋介石は改めて北伐を開始するわけだが、この時国民党内から共産主義者は排除されていたため、これは欧米の支持を得ていた。ちなみにこの時には日本も国民党軍と戦っている。済南で両軍が対峙するが、この時に済南事件が起きている。日本は蒋介石から「山海関以東には侵攻しない」との言質をとると張を積極的には支持しなくなった。そして6月4日、張は北京を脱出し、その後爆殺されるわけである。


 

 第九十四号命令が出され、奉天軍閥と中華民国の関係が悪化する。これはソ連の管理局長が白系ロシア人にソ連か中国の国籍取得を求めたものであるが、これが越権行為として非難されたのである。当時はソ連から逃れた白系ロシア人が満州にたくさん亡命していたのだろう。


 

 北京の実権を握った張作霖は欧米との関係を重視し、反日反共的な政策をとるようになる。彼は欧米資本を引き込んで南満州鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとした。これらのことが爆殺事件の遠因になっているのだろう。その後張学良は父親以上に欧米との連携を模索するようになる。

 1929年7月、張学良はソ連側の協定違反を理由に鉄道権益の武力回収を試みるも、ソ連軍の攻撃にあい敗北した。勝利したソ連は12月に結ばれたハバロフスク議定書で回収された利権の原状回復を認めさせた。しかしこれは国民政府は批准しなかった。その後中ソの直接交渉がモスクワで始まり、中国側は鉄道の売却を迫ったが、満州事変が勃発し交渉は打ち切られる。


 張学良は国民政府との連携を強めていた。だから東清鉄道の売却、などという話も出たのだろう。

 1932年に満州国が成立。ソ連は満州国を承認しなかったが、東清鉄道は満州国とソ連の合弁になった。日本は鉄道の売却を提案したが長らく価格面で折り合いがつかなかった。1935年3月にようやくソ連は満州国と北満鉄道上と協定を結んで北満鉄路全線の利権を満州国に売却し、満州から撤退した。こうして東清鉄道は満州国有鉄道となった。

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