ヴァレリーのフローベール論を読んで


 ヴァレリーのフローベール論を読む。ヴァレリーはアントワーヌは好きだが、ボヴァリーやサランボーはあまり評価していないという。曰くリアリズムとは平凡な現実を作家の技術でもって美しく描き出すものだという。平凡な登場人物は美しい色彩の中に置かれることによってその愚鈍さがさらに強調される。作家はそれを「ありのままの現実を写し出したものだ」と主張するが、それは結局創造された真実にすぎない。


 フローベールは細部や正確さにこだわりすぎた。そして彼は文学的決断をすることが出来なかった。作品内の出来事で偶然によって発生したことは1つもない。全ては起こるべくして起きたことで、自分はそれを描き出しただけのことである。そう彼は主張する。しかし彼が忌み嫌うその偶然こそが作家の力量をはかるために必要なものなのである。数ある事件、登場人物のふるまい、気まぐれ、そういうものたちのどれを選んでどれを捨てるのか、それを決断することこそが作家に求められていることなのだ。


 作品よりも作家自身の方が魅力的な存在。それがフローベールという作家であるという言葉でヴァレリーは論考を終える。フローベール自身の方がフローベールの作品よりも面白い。彼の書簡集をこよなく愛する私はヴァレリーの言葉に頷かないわけにはいかない。しかしやはりフローベールは作品あってのフローベールだと思う。書簡と作品とは相互に補完しあい、フローベールという巨大な虚構世界を作り出しているのである。私はボヴァリーを読むときには常に作家の存在を意識させられる。どこを読んでもちらつくのはクロワッセで陰鬱な表情で羽ペンを走らせるフローベールの横顔なのである。あるいは庭先で腕を振り回しながら自らの作品を朗読する彼の姿なのである。そしてそれはまさに彼が望んだことだったのだ。彼は作品の中に自らを偏在させたかったのであって、完全に消し去ってしまいたいわけではなかった。

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