小説「傷の町にて」
「ここには何もないよ」
「そうでもないと思うけどね」
そういって彼女は煙草に火をつけた。彼女が煙を吐き出すのを見届けてからヘレンが言った。
「言い方が悪かったかな…。この町にある何もかもが…私の心を躍らせないんだ」
「じゃあこの町を出ればいいんじゃないかな?外の町にはもうちょっと…いい町があるかもしれない。人の良さそうな大家と、蜘蛛の出てこない浴室のついた部屋が見つかるかもしれない」
彼女は煙草を吸い、ヘレンに向かって煙を鼻から吐いた。ヘレンは動じることもなく、彼女の目を見据え続けた。先に目を背けたのは彼女の方だった。ヘレンが言う。
「そんなこと出来ないって、知っているくせに」
「出来るよ…。あんたももう自分でわかってるんだろ?腹のそれを…傷と思い込むことなんか出来ないって」
咄嗟にヘレンは自らの腹に手で触れた。しかしすぐに離してしまった。
「これはやっぱり…傷だよ今でも」
「さあどうだろう。役所に行って、審査してもらえばいいじゃないか。それが一番手っ取り早い方法だよ」
「それでも…。これが傷じゃないってはっきり承認してもらえたとしても、私がこの町に自分の意思に留まりつづけるのなら、これは傷であり続けるんだ」
「でもこの町には何もないんだろ?」
ヘレンは初めて彼女から目をそらし、俯いてしまった。
「何もないから、出ていきたいんだろ?」
ヘレンはかすかに首を振った。
「だったらあれかな。やっぱり…私がいるからかな。私がこの町にいるから…あんたはこの町から出ていきたくないのかな。ここに何もなくても。ここが傷の町でも」
ヘレンの頬を涙が伝った。彼女はいたたまれない気持ちになって、立ち上がって窓から外の風景を眺めた。そしてこう言った。
「だったら私が、あんたの傷ってことになってしまうね…」
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