虚無について

虚無。国会図書館という虚無。国会議事堂という虚無。警察がところどころに張る検問も、散り始める銀杏並木も、黒塗りのハイヤーもセンチュリーもプレジデントも虚無である。クリスマスの飾り付けがなされた青山通りも、胸の大きな修学旅行生だらけの竹下通りもまた虚無。そこには何もない。虚無とは砂漠ではない。砂漠にはそもそも砂があるし、蠍だって蠢いている。時にはキャラバンだって通りかかるかもしれない。鳥取砂丘など立派な観光地で、「緑化」してしまうことを防ぐために自治体は毎年多額の予算を費やしている。鳥取にとっては砂漠を侵食する植物の方が虚無なのだ。


虚無を表現するあの書物たちも虚無だ。仏陀も龍樹も虚無だ。サンスクリットで書かれた仏典を漢語に翻訳する行為もまた虚無である。エオンも、そこから距離を置いた陶淵明も虚無である。血と涙に浸された六朝時代も虚無である。そして虚無であることが救いなのだ。全ては虚無であるが、いかなるものも虚無にはなれない。その違いを理解することができるものは少ない。


誰かがうどんをすする音は虚無だろうか。それは人を不快にさせる。それは人の胃袋をムカムカさせる。しかしそれは虚無とはいえない。ヌーハラという概念を嫌というほど理解させるが、人を虚無の境地には連れていってくれない。人をあの楼蘭には連れていってくれない。人をあのギュスターブとアルフレッドが語り合う暖炉の前には連れていってくれない。

全ては虚無だが、何も虚無になることはできない

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