言葉たち
〇Aの言葉
「思考の屑ばかりが積みあがる。僕はどこにも行けない。そもそも僕というものがどこにも存在しないからだ。いや、それも嘘だろうな。とにかく自分の言葉は全て嘘だという気がしてくるよ。なんだこの白い服は?僕は白い服を着たいだなんて一度も言ったことがないんだぜ?…服だけじゃない。シーツも、壁も、食堂でスープをよそってくれるおばさんの頬まで白いんだからな。僕はきっと迫害されているんだろう。無実の罪を着せられて、どこかこの世の果てのような牢獄…グアンタナモとか?…に幽閉されているんだろう。誰かが助けに来てくれるなんてことは信じてはいないよ。いくら肉体的に救われたって、精神はその肉体という牢獄に閉じ込められたままなのだからね…」
〇Bの言葉
「狂人ばかりだよ。ここにいるのは狂人ばかりなんだ。それも自分だけはまともだと勘違いしている狂人ばかりなんだからね。そういうのが一番厄介なんだ。…わかるだろう?本当の意味でまともなのは僕だけだよ。他はみんな狂人だ。みんな自分では狂人を演じているだけだと思っているが…哀れなものだよ。仮面だと思っているそれが実は素顔だってことに気づいていないんだからね。そういう狂人は普通の狂人が絶対にやらないようなことまでやる。人を殺したり女を強姦したりするのはこういう狂人だよ。いくら残虐なことをしても彼らの良心は痛まない。あくまでも自分は残虐な狂人を演じているだけと思い込んでいるからだ。でもそんなような奴が常人だなんてことがありえるわけがない。結局狂人なんだよ。…ねえここはそんな狂人でいっぱいなんだよ。唯一まともな僕も、狂人の振りをしないと生き残ることができない。だからちょっと変な振る舞いをするけどね…。いや本当にここを出たいよ。…別にずっとここにいたら僕まで狂人になってしまいそうだからそう言っているわけじゃない。狂人になるかどうかということは生まれつきで決まっていることだからね。常人に生まれついた僕が後天的に狂人になるなんてことはありえない。君もそう思うだろ?…聞くまでもなかったね。答えのわかりきっていることを聞く意味なんてありはしないものね。いやでも…とにかくここを出たいんだよ。なんていうかとにかく…空気が悪いからさ…」
〇Cの言葉
「私は幸せになりたかったんだ。暖炉のある家でさ、花に囲まれてさ、色の白くて背の高い、優しい男の人と一緒に暮らしたかったんだ。家は日当たりのいい谷間にあってさ、ちょっと歩いていったところに綺麗な小川が流れているの。朝起きたら一番に乳搾りをしてさ…。ああ、体はずっと動かしていたいよね。何かお手伝いさんがいてさ、その人が生活に必要なことは全部やってくれる…みたいなのは私は嫌いだな。子どもの頃からずっとそういう家の手伝いみたいなことをして生きてきたからさ、何もせずにいるのっていうのが嫌いなんだ。だからここでの生活はあまり好きじゃないな。食事の準備とか、掃除とか洗濯とか全部職員の人がやってくれるでしょ。「手伝いますよ」って言っても適当にあしらわれるだけ。「気持ちだけありがたく受け取っておくわ」なんていわれてさ。私は私のために働きたいって言っているんだけど…。中庭も狭いわあんなの。私はもっと広い野原を思う存分に駆け回りたいんだけど…外には出られないからね。裁縫仕事ぐらいかな、気晴らしになるのは。机の奥の方にね、針と糸を隠し持っているの。…職員の人に言っちゃ駄目だよ?ばれたら取り上げられちゃうもの。それでちょっととした服のほつれとか破れとかを繕ってあげるの。もちろんそういうのは職員の人に言えば直してもらえるんだけど、申請用紙に色々書いて、手続きして、何日か待たないとやってもらえないんだ。私に任せれば何十分かでちょちょいだからね。だからそういうのは大体皆私に頼むんだ。…別にただでやってあげてもいいんだけどね。さっきも言った通り私がやりたくてやっていることだからね。でもまあ皆色々と代わりに色々なものをプレゼントしてくれるんだ。何も持っていない人は情報をくれるんだ。私も別にそういうのが嫌いなわけじゃないから一応貰うんだけどね…」
〇Dの言葉
「ええそうです。僕が「文集」の責任者です。…別に何か特別なことをしているわけじゃないです。ここにいる人々に文章を書いてもらって、それを文集にまとめているだけです。…いや全然秘密にしているわけじゃないです。紙もペンもちゃんと文集を作るんだって言って支給してもらったものを使っています。…ああ、何冊も作って配布するわけじゃないです。1冊だけです。「借りたい」って言う人にはだれでも貸すことにしています。文章は集まる度に追加していっています。だからある程度の厚さになったらまた新しく文集を作るんです。古い分は全部図書室に置いてもらっているので、今でも行けば読めるはずですよ。え?今までに?えー…何冊ぐらいだろうな。僕の前の責任者が編集したものも含めると100冊以上にはなっちゃうんじゃないかな…。そうなんですよ。これは僕が最初に始めたことじゃないんです。僕がここにやって来るずっと前から文集編集ってのは行われていたみたいですね。いつから始められていたのかってことはちょっと僕にはわからないですね」
〇Eの言葉
「…ああ、これですね。この棚全部が…向こうもそうか。こうして見るとかなりありますね。100冊なんてものじゃないですね。向こうに行けば行くほど古くなるのかな…。…これが一番古いものなのかな?○○年?僕がここにやってくるよりずっと昔のことですよ。すごいな。僕だって相当の古株なんてですけどね。…何かこれが最初のものってわけでもなさそうですね。…あの奥の部屋、鍵がかかっているけれど、あそこにも色々と本が置かれているのかもしれないですね。今度ちょっと鍵を探しておきますよ。…え?いやこないですよ。こんな地下の書庫なんて本当、ずっと以前に入ったっきりで。まあ職員の人がたまに入ったりすることはあるけれど、それだって本当たまーにのことですよ。そもそも皆図書室なんてあんまり利用しないですからね。1日ずっと図書室にこもりっきりで本を読んでいても、僕以外に誰もやってこないなんてことは本当ざらでしたよ。…まあ最近はちょっとは皆読むようになりましたけどね。僕が色々と啓蒙しましたから…。それでもこんな文集なんて読む人はいないですよ。…この文章を書いた人たちは皆ここを出てるか、死んじゃったりしてるんでしょうね。…あれ?…うん、うん。やっぱりそうだ。この人は多分今でもいますよ…」
〇Fの言葉
「懐かしいね。懐かしいよ。これは確かに私の書いた文章だよ。ここに来て間もない頃に書いた。もうかれこれ50年ぐらいは前のことになるんじゃないかな。ん?ああ、ここに来た時は17…いや18だったかな。それぐらいのものだったよ。ろくに世間を知ることがないままにここへやってきて、それでここで人生を終えようとしている。別に罪を犯したわけでも何でもないのにね。不満?不満はなかったさ。つまり、ここへ来る前に欲しいと思っていた物は全てここにあったわけだからね。まあそうだね。客観的に言って、かなりひどい境遇の下で私は育ったんだよ。まあそれも昔の話さ。…ここに来た当初は自分の部屋の中でベッドの上に寝転がってひたすら天井を見ていたよ。…それがずっとやってみたいと思っていたことだったんだ。陽がのぼった後もずっとベッドの上でうずくまって、石のように何も考えずにひたすらぼーっと天井のシミを数える。そんなことが夢だったんだ。そんな願望以外は何も胸の中には抱いていなかったよ。…まあもちろん1週間もすればそんな生活には飽きる。まあ色々と動き回って色々な奴らと話している内に…Gと出会ったんだ。そいつが当時の文集の責任者だった…」
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