東清鉄道について

 ロシアは1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。ロシアは三国干渉して日本の遼東半島の領有を阻止するのと引き換えに満州北部の鉄道敷設権を手に入れていた。その際のルートはチタから満州北部を通り、ウラジオストックへと至るものであった。1896年12月には中国東方鉄道株式会社が設立される。経営の最高機関である理事会はサンクトペテルブルグにおかれ、ロシア大蔵省がその理事を任命した。

 その後ルートが選定される。東清鉄道本線は満州里~グロデコヴォ間1510キロであった。(グロデコヴォはハルビンとウスリースクの中間にある駅) シベリア鉄道と連結させるために西側では満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザバイカル鉄道355キロ、東側ではグロデコヴォ駅とニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道の建設もそれぞれ決定された。


 1897年にはウスリー線(ウラジオストク~ハバロフスク)が開通。1898年3月、旅順大連咀嚼条約が結ばれるとハルビンから大連、旅順に至る南満州支線の敷設権も獲得した。1898年にはシベリア鉄道の他路線も次々と開通し、全線開通まで残るはアムール線(スレチェンスク~ハバロフスク)およびバイカル湖周辺のみとなっていた。その辺りは地勢が険しく、敷設が困難な状況であった。南満州支線は1903年1月に完成している。

 最後の大興安嶺トンネルが完成し、シベリア鉄道と連絡したのは1904年2月、日露戦争勃発直前のことであった。後ポーツマス条約により、長春(ハルビンと瀋陽の間)以南の南満州支線は日本に譲渡され、南満州鉄道となった。中華民国成立後もロシアは東清鉄道の利権は保持しつづけた。

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