小説「入れ墨の男」
刺青だらけの男。たくさんの名前や絵が体に彫りこまれている。
「忘れっぽいんだ俺。だから印象に残った風景とか、大好きな人の名前とか彫り込むんだ。馬鹿だってはっきり口にする奴はいないけどさ、軽蔑した目で俺のこと見る奴はたくさんいるよ。でも俺にとってはこれが一番良いやり方なんだよ。あんたはどう思う」
「気持ちはわかるよ。俺の場合はノートに日記をつけるんだ。20歳になったぐらいの頃から毎日つけているからさ、まあ…20冊ぐらいにはなってるな」
「そっか。日記を読み返すことはあるか?」
「時々あるよ。読み返してみて、ひどく後悔することがある。そういう時は日記を焼いてしまうんだ。消したかった過去の部分だけ引きちぎってさ、灰皿の上でライターで焼くんだ。別にそれで過去を忘れられるってわけでもないんだが、まあ気は晴れるよな」
俺は彼の右乳首の上を見た。何かのイニシャルが彫りこまれている。その上には太陽を模したと思われるマークが彫りこまれていた。
「刺青じゃ引きちぎって焼くわけにはいかないよな。そういう意味じゃあんたの方が誠実なんだろうな。記憶とか、過去とかそういうものに対してさ」
そんな俺の言葉を聞いて、彼はあいまいに笑った。
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数日後俺たちはまた会った。会うとすぐに彼は嬉しそうにシャツをめくりあげ、わき腹のところを指差した。そこには俺の名前が彫りこまれていた。
「俺もあんたのこと、日記に書いたよ」
これは嘘だったけれど、こう言う以外に方法があったとは俺には思えない。今でもそう思っている。
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