雑文

「歴史書は燃やせても、過去を消すことはできない」

「過去を消すことはできなくても、歴史書を燃やすことはできると言い換えることもできるわけだ」

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彼はSFを書いた。彼は歴史小説を書いた。彼は色々な小説を書いた。彼は…。


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何もしたくない。というのは嘘だ。ほっておいても何かは出てくるのだ。ほっておいても指は動いて文章を書いてしまう。ほっておいても肺や心臓は動くのだ。ほっておいても何かはしてしまう。これから僕は風呂に入るだろう。そして食事をするだろう。どこかから何かを借りるだろう。そして返すだろう。返せなくてもどうせ執達使がやってきて、森の奥にでもある監獄へ僕のことを放り込むだけのことだ…

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「屑みたいな文章を書いている奴らが憎いよ」

「そう」

「そうって何だよ。お前だってその内の一人なんだぞ?なんでもっと言葉を大切にしないんだ。なんでもっとちゃんと…せめて…。くそ!」

「私は私の書いているものが屑だなんて思ったことはないよ。あなたはなんでそう思ったの?」



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机の上には花瓶があって、アヤメの花が生けてある。彼女はソファーから立ち上がってカーテンをほんの少しだけ開けた。部屋の中に光が差し込んだ。ベランダに出れば市場を眺めることができるはずだった。ここはフィレンツェ。僕はフョードル。しかしどちらも偽物にすぎない…


しかしフィレンツェにアヤメの花があってもいいではないか?そうだ。フョードルはソ連から亡命してきたのだ。一旦パリまで行ったが、そこにはなじめず、知人のつてを頼ってここまでやってきたのである。なけなしの金は大移動によって非常に心もとなくなってしまった。だから彼は市場のそばの賃借料の安い雑居アパートしか借りることが出来なかったのだ。とにかく何かしら収入のあてを見つけるまで彼は手持ちの金でやっていかなければならなかった…。


 彼はジュネーブの銀行に隠し口座を保有していた。ソ連当局はそれは彼が不正を行うことによって蓄財したものだとして口座の凍結を求めていた。疑いはすぐに晴れるだろうが、しかし口座から金を引き出すことができるようになるまでには長い時間がかかると思われた。


 僕はパラッツォ・メディチを見上げる。僕はヴァザーリの設計した橋の上を歩く。僕はフィレンツェの太陽の光を浴びながら街を歩く。フィレンツェには公園がない!どこもかしこも石ばかりだ…(と、ドストエフスキーは書簡に書いたことがある)

アルノー川とセーヌ川の違いについて思いをはせる。銀行からの送金はまだだろうか?それまで僕は一体どのようにして暮らせばいいのだろうか?古びた建物のバルコニーを改造したカフェで彼はコーヒーをすすりながら考える。パラソルはあるのだが、傾きかけた陽の光をさえぎることができない。鼻が焼けてしまいになるほど熱くなる。若い男女が僕のことを見て笑っているような気がする。ここはなんという街だろう!ここまでなんと恐ろしいほどの旅をしてきたことだろう…。

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