イェーリング「権利のための闘争」を読んで

イェーリング「権利のための闘争」を読む。


19世紀ドイツの法学界にはサヴィニ-が出てきて、歴史法学派が幅をきかせるようになった。彼らは法も言語や芸術と同じように自然にその様式が発展してくるものだということを主張した(だから積極的に行動して現在の法律を変える必要はないということである。法が変わる時には自然に法律は変わっていく、ということである。彼らはナポレオン法典にしたがってドイツ法を改造しようとしていた人々と対立していた)イェーリングは法の発展に法則性があることは認めつつ、歴史上のどの局面でも新しい法を求める人は死力をつくして戦ってきたのだ、ということを主張した。どの時代の人々も必死に戦い、そして法を変えてきたのである。


法を変える時には必ず抵抗が発生する。なぜなら古い法に伴う既得権益というものが存在するからである。どちらの陣営も自らの権利を守るために必死に戦うため、闘争となるのである。どちらの陣営が勝利をおさめ、法がどのように変わっていくのかということは歴史の審判をまたなくてはならない。

自分の権利を守るために訴訟を起こし、その権利を守ることによって得られる利益以上のものを費やすことは愚かなことと言えるだろうか?必ずしもそうではない。彼はそうする時に権利を守るだけでなく、人格までも守っているからである。

農民は自らの財産に対する所有権が侵害された時には徹底的に争うのだという。これは騎士が名誉を毀損された時の行動に似ている。


人はなぜ権利を守らなければならないのか?それには2つの理由がある。
①それは自分に対する義務であるから
②それは国家の法制度に対する義務であるから

権利とはそもそも自分の利益に関するものである。どうしてそれが国家の法制度とつながるのであろうか。

①について


誰かが、私の所有権を認識していながらその権利を侵害した場合、私は徹底的に戦わなければならない。なぜならその誰かは財産を侵害しているだけでなく、私の権利一般、ひいては人格そのものを侵害しているからである。和解してはいけない。


相手も自分に所有権が保持していると認識しているがゆえの闘争であるなら、和解の余地はある。なぜならその場合相手は私の権利をないがしろにしようとしているわけではないからである。


②について

権利は法が定義するものであると人々が考える。それは正しい。しかしそれだけでは不十分である。権利もまた法を定義するのである。抽象的な法は、具体的な権利が行使されることによってより確かなものになっていくのである。つまり、個々人が権利をしっかり行使していくことによって国の法制度がより確かなものになっていくのである。


------------------

読んで印象に残った部分のメモ。まだ全ては読んでいない。しかしなかなか面白い。特に「抽象的な法は、具体的な権利が行使されることによってより確かなものになる」というところは。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?