陸軍反長州閥はどのようにして権力を持つに至ったか メモ


・宇都宮太郎という男がいる。彼は荒木貞夫・真崎甚三郎という反長州のホープというべき存在の庇護者であった。彼自身は佐賀出身であった。彼は大量の日記を残していて、それが重要な資料となっているようだ。


・荒木、真崎は上原勇作が作る反長州閥に属していた。この上原閥から皇道派、統制派などが現れてくる。荒木は東京、真崎は佐賀県出身であった。

 

・1920年代はまだ長州閥の力が強かった。その長州閥がどのようにして弱体化していったのかということに興味がある。


・1927年6月27日から7月7日まで東方会議なるものが開かれた。これは軟弱な幣原外交を是正することを目的として開かれた会議である。この会議によって、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置をとるという方針が決定された。後には軍部と結託した政友会までもがこの方針を踏襲するようになる。済南出兵はこの方針に基づいて行われた。またこの会議には当時関東軍司令官であった武藤信義も出席していた。


・森格なる男がある。元事業家で、後に政友会に入党し政治家となった。党に多額の献金をする。田中義一内閣で外務政務次官に就任する。彼は東方会議にも参加していた。1931年に犬養内閣が成立すると内閣書記官長となる。彼は軍部との関係を政治基盤としていたので犬飼とは対立する。32年5月15日には5・15事件が起きる。


・犬飼内閣の陸軍大臣は荒木であったが、これが長州閥凋落の始まりであった。それを考えると、なぜこの時に荒木が大臣に就任することができたのか、ということが謎になってくる。

 

・犬養内閣の1つ前の第2次若槻内閣の時の陸軍大臣は宇垣派の南次郎であった。彼が大臣となっている時に満州事変が起きる。彼自身は同期でかつ同じ宇垣派の金谷参謀総長と共に国際協調派であった。しかし結局下からの突き上げと世論に耐えることができずに事変を承認する。また在任中には永田鉄山軍事課長が国家総動員法の策定に関わりだしていた。若槻内閣崩壊の後、南でなく荒木を大臣に推進したのは上原と森であった。森はこの時すでに長州閥を見限っていたということだろうか。とにかくこの荒木の陸軍大臣就任というのは1つのポイントであったように思う。じっくり研究してみたい。


・1929年の真崎左遷の時荒木も左遷されかけたのであるが、武藤信義のとりなしでなんとか首の皮がつながった。この時すでに荒木の人気は相当なものであったらしい。また、荒木は憲兵司令官の時から大川周明、平沼騏一郎、北一輝、井上日召などといった右翼と交流を持っていた。十月事件の時には首相候補として担がれかけもした。やはり様々な方面で人気が高かったのであろう。

 

・荒木は陸相になると金谷参謀総長を更迭して傀儡をすえ、それから参謀次長に真崎をすえ、他の重要ポストにも自らの閥の者をつけていった。過激思想の青年将校たちは東京の第1師団に集めた。以後荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになる。しかし過激青年将校に自重を求めるようになると人気は下降していく。


・犬養暗殺後、陸軍は政党内閣を拒否した。結局西園寺内閣は斉藤實を推薦した。

 

・1932年9月日本政府は満州国の独立を承認し、日満議定書を締結する。33年3月27日には国際連盟脱退となる。陸軍大臣は引き続き荒木貞夫。ただし1934年1月23日からは林銑十郎が大臣となる。これは徐々に荒木が青年将校たちを制御しきれなくなってしまったからである。


・荒木貞夫人事では満州組も左遷される。たとえば司令官には武藤信義、参謀長には小磯国昭が任命された。しかしその後永田ら統制派が主導権を奪い返すと満州組も復活する。この辺りの事情実に複雑である。


・1934年には陸軍士官学校事件なるクーデターがおきる。皇道派青年将校磯部浅一・村中孝次らが指揮する形で決起する計画であったが情報が事前に漏洩していて、主なメンバーが逮捕されてしまった。磯部と村中は2・26事件の中心メンバーとなる。11月事件とも呼ばれる。


・林銑十郎は1935年7月には真崎を更迭したりもしている。これは永田の意向だったらしい。この時に他の人事も行われている。満州組の復活もこの時だったのか、石原莞爾は参謀本部作戦課長になっている。これが伏線になったのかどうかはわからないが、1935年8月12日には相沢事件が起きて永田が殺害されている。


・相沢事件の責任をとって林銑十郎は辞任。1935年9月5日からは川島義之が陸軍大臣。前述の事情もあってこの時期は皇道派と統制派との対立が激化していた。よって後任には中立の川島が選ばれたのである。しかし結局2・26事件を防ぐことはできなかった。事件後には予備役に編入される。


・今2・26事件について詳しく記す気力はない。とにかくこの事件によって皇道派は弱体化し、統制派が本格的に力を強める。


・この後広田内閣成立。広田内閣の後には宇垣内閣が成立する可能性もあった。しかしそれを全力で阻止したのが石原莞爾である。何を思ってそのような行動をおこしたのか。研究の必要がある。

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