雑文「神について」

・神について

 何か辛いことが起きる。子供が病気になったりする。そういう時に人は何かに頼る。まずは医者に頼る。しかし全ての病気を医者が治せるわけではない。そういう時人は何か人智を越えたものに頼る。それが精霊や神という存在になる。

 人は形ない物を信じることは出来ない。だからまずは物に頼る。具体的には巨石や巨木など、なかなか形の変わらない、めったなことでは壊れてしまわないものに頼る。我々人間は壊れやすいものだから、壊れにくいものに頼ってしまうのだ。そして壊れにくいものを神様だとみなすようになる。

 しかしその考え方は現実に打ち砕かれる。巨石は結局願いをかなえてくれないし、案外壊れやすいものだからである。そこで巨石や巨木は神ではないという考えに至る。しかし実際には巨石や巨木から完全に離れることはできない。強大なもの、不変なものに対する人間の執着心が、そうさせないのである。だから結局、巨石や巨木は神そのものではないが、神を指し示すもの、神を象徴するものであるという考えに落ち着くのである。


 やがて人は文字を発明する。すると文字は巨石や巨木にとってかわった。「神」という文字が巨石や巨木に代わって神を指し示す矢印となった。確かに矢印としては言葉の方がずっとふさわしい。矢印は出来るだけ自己主張するべきではなく、あくまでもそれ自体では透明でなくてはならない。文字はその素材に着目すればただの紙、羊皮紙、インクなどに過ぎず、巨石や巨木などよりもずっとその存在感は小さくなる。

 また、文字は限りなく不変に近い。それはコピー可能だからである。巨石や巨木は壊されてしまえばそれっきりであるが、「神」と書かれた紙は燃やされてもまた何度でも書けばいいだけである。文字は一見限りなくもろく見えるが最後に残るのは文字である。古今東西、壮麗な大建築は皆滅び去って、結局残ったのは聖書やコーランや仏典などといった文字ばかりであった。

 しかしあくまでも忘れてはいけないのは「神」という言葉はしょせん矢印に過ぎないということである。矢印だから、その向きをいじって「指し示される」ものを変えることも可能なのである。特に、何十年、何百年もかけて向きをちょっとずつ変えられてしまった場合には人々にはそれに気づくことはほぼ不可能である。「何かおかしいな」とおもっても我々にはどうすることも出来ない。我々は矢印を通じてしか形のないものに触れることが出来ないからである。矢印を元の向きに戻せばいいという意見もあるだろうが、その場合正しい向きをどうやって知ればいいというのか?つまり、「神」という言葉を使わずに、一体どうやって神を探せばいいのか?と私は疑問に思うのである。

 かつて「神」という言葉が指し示していたものを今指し示している言葉がきっとあるはずである。それに合わせて矢印をいじればいいという意見があるかもしれない。しかしそんな都合のいい言葉がもし存在するのなら、古臭い「神」などという言葉は捨ててしまって、そちらの方を新しい「アレ」にしてしまった方がいいのではないかと思うのだがどうだろうか




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