女性の共有についての考察

 古代に度々登場した共産主義的思想は決まって女性の共有を主張した。サーサーン朝末期に登場したマズダク教、2世紀アレキサンドリアに登場したカルポクラテス派(私はこの派の存在を鴎外の「古い手帳から」を読んで知った)などがそうである。この女性の共有の主張はどういう意味を持っているのであろうか。

 男と女が出会う。そして周囲の者の祝福を受けて結婚する。これで家族は完成する。子どもが生まれればその関係はより強固なものとなるが、子どもが生まれなければ家族になれないということはない。この男はこの女以外とセックスすることはできないし、女の方も同じである。


 プラトンは「国家」において女性と資産の共有を主張した。これは家族を作るとどうしてもその家族を第一に考えるようになってしまうから、というのがその理由らしい。ちなみにプラトンは政治に参画する「市民」のことだけを考察の対象にしていて、農民、商人、奴隷のことなどははなから無視している。アリストテレスは逆に人々が家族を持つことを推奨している。家族を持ち、資産を持った上で、貧しきものに対して施しを与えるべきだと主張したのだ。他人に施しを与える動機となるのが仁(φιλ.「フィル」 フィロソフィーの「フィル」であろう)であるとアリストテレスは言った。ストア派においてはこの仁が非常に重要視され、キリスト教に至って愛の思想になった、と鴎外のメモには書かれてあった。


 しかし女性共有の主張をする一派は決まって弾圧されてきた。現代においては1960年代に流行ったフリーセックス思想が思い出されるが、あれも結局社会全体には浸透していかずに消え去っていってしまった。なぜなのだろうか?


…などと問いかけをしてはみたが、なんとなく予想はつく。いくら共有とかフリーセックスだとか都合の良いことを言っても、結局は偏りが生じてしまうからなのだろう。集団がある限り序列が生じてしまうのは世の常である。集団が出来た当初は理想に準じた運営を行うのも可能かもしれないが、段々と人は序列の高い人のところへ集まっていってしまう。そうすることで得になるのなら、何が何でもそういう道を選ぶのが人という存在の性なのである。結局序列の高い人間のところに大勢の女が集まっていき、序列の低い人間は割りをくってしまうわけである。勝者が総取りをし、敗者はほとんど何も手にすることができない。この段階になって目が覚めた人々はそのコミュニティから逃げ出していってしまうのである。結果理想は雲散霧消し、集団はなくなってしまうというわけだ。

一夫一妻制が施行されている社会でも、時がたつにつれてどんどんたががゆるんできて、段々と勝者総取りの社会になってくる。そうなると革命が起きて平等を旗印に掲げた社会ができるのであるが、それもまた時間がたてば腐敗していく。現代もまたかなり腐敗の度合いの強い時代といえる。「何か」はいずれ起きるのかもしれない。

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