2015年12月14日の日記


 昨晩は延々とエロ動画をダウンロードしてしまった。それも人に言うのがはばかられるような種類のものを。ゾンビのように、北朝鮮の労働者のように延々とハードディスクに保存していく作業を続けていた。こんなことは時間の無駄だ、浪費だ、とは自分でもわかっていた。わかってはいたが自分をとめることができなかった。涙のかわりにひたすらに精液だけが流れていった。

 残虐なものを時々求めてしまうということ。それも紛れもない善人がそれを求めてしまうということ。それによって善悪が相対化されるということ。自らの惨めさの責任を他の誰かにとってもらいたいという願望。それこそが聖女を求めてしまう原因なのかもしれない。聖女。ここでいう聖女とはジャンヌダルクのような聖女だ。男のかわりに傷つきながら戦って、捕まって男の欲望のままに犯されて、射精後の倦怠感の中つじつまあわせのごとく焼かれて殺されるジャンヌダルクのような女のことを言っている。


 昨日は何もしなかった。とはいえ飯はたらふく食ったし、酸素も吐くほど吸った。水を飲んで尿もしたし、昼寝もしたしテレビも観た。これらのささいな情報からでも僕という人間がいつの時代のどの辺りの地域に暮らしている人間なのかということを判明させることはできる。まず文章そのものが日本語だから筆者が日本人であるということは明白だし、「テレビ」とあるから20世紀後半から21世紀前半頃に生きていた人であるということもわかる。未来人か宇宙人が僕の文章を読めばそれはそれは多くのことを知るであろう。決して彼らは僕のことを虚無だとは思わないだろう。虚無ではないと認めた上で興味は持たずにそのままやり過ごす、ということはあるかもしれないが。いずれにしても「何もしなかった」ということはありえないし、僕が虚無であるということももっとありえない。それは結局のところ虚構にすぎない。

 江戸時代はものすごく魅力的に見える。19世紀のパリなんてものは1つの文明の最終到達地点のようにさえ見える。しかし荻生徂徠やフローベールにとっては彼らの生きる街は堕落したソドムだった。虚無に支配された砂漠だった。どんなものでも遠くから見れば宝石に見える。しかし宝石というのはいざ手にしてみるとどうしていいのかよくわからない。舐めても味はないし、肛門に入れてもごつごつしていて痛いだけだ。

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