234~247年ごろの三国志の時代について
今日は三国志のことについて書かなければならないのだった。
星落五丈原。諸葛孔明の命のともし火は消え去る。孔明の遺言に従い、蜀軍は堂々と退却していく。司馬仲達は深読みするあまり追い討ちをかけることができない。
孔明が死ぬと魏延が不穏な動きをしはじめる。しかしその動きも孔明は読んでいた。魏延は馬タイに討伐されてしまう。
孔明の死は234年のことであった。
237年には公孫淵が自立し、燕王を自称する。司馬仲達が討伐に乗り出す。淵は呉に援軍を要請したり、鮮卑を味方につけたりする。しかし結局淵は敗北し、遼東公孫氏は滅亡することになる。
公孫氏が滅亡したことにより、朝鮮半島から遼東を通って中原へといたる道が開かれた。この道を通って洛陽までやってきたのが卑弥呼の使者である。使者は239年にやってきた。この記録は魏志に残っている。240年帯方太守は使者を派遣している。247年には帯方郡から張政なる者が派遣されている。
247年といえば曹爽が実権を握り、司馬仲達が大人しくしていた頃である。何晏や王弼が大手を振って歩いていた時期でもある。正始の風などとも言う。
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