小説「ある髪結い」


「そんな馬鹿な話ってないじゃない。そうは思わない?」

「…ん?ごめん。聞いてなかった。もう1度言ってくれる?」

「20年も生きてきて、自分のことについて何も書けないなんて、そんな馬鹿な話ってないわよねって、そう言ったのよ」

「僕は50年以上生きているけれど自分のことについてなんてやっぱり何も書けないな」

「だってあなたは女の体を洗ったり爪を磨いたりするぐらいしか能のない不具じゃないの。私みたいなまともな人間で、それでこんなに何も書けない人なんて他にいないわよ、きっと」

 僕は丁度彼女の髪を結っている途中だった。髪に油を塗って、引っ張って編み込んだり布を巻いたりする。多くの女性はあれこれと注文をつけるものなのだけれど、彼女は例外的に「うまくやっといて」と言って済ましてしまうのだった。おかげで僕はやりたかった髪型を彼女で試すことが出来ている。

「でもみんなやっぱり悩んでいるよ。劇的な人生を歩んできた人間ほどそうだ。大体が自分の考えていることを文章に仕立て上げるのはこれはなかなかに難しいことなんだ。それなのに自分の人生を、限られた文字数でまとめろなんていうのがそもそも無理な話で…」

「あたしは劇的でも何でもなかったわ。山間の放牧地で生まれて、ずっと羊だの馬だのの世話をして過してきたわ。季節が変わるごとに家ごと移動するのよ?今みたいにこんな窮屈な部屋の中で1日過すのも辛いけれど…あの頃も大概だったわ。だからあのスケベ親父が”私は実は王宮の側近で…”なんて言い出した時は期待しちゃったわ。”ああ、もしかしたら私ここから抜け出すことができるかも”って。まあある程度は期待にこたえてくれたんだけど…何だかね」

「僕には十分魅力的な生活に思えるよ。僕は街で生まれて街で育って、ろくに外の世界を知ることもなくここに来てしまったから…」

「ま、あなたの話はどうでもいいわ。ところでまだ出来ないの?いい加減同じ姿勢でいるのにも疲れてきたわ」

「丁度今出来たところだよ」

 そう言いながら僕は彼女に手鏡を渡した。彼女は首を動かしながら髪をいじくっている。終止憮然とした表情で、その髪型が気に入っているのかどうかということはよくわからなかった。彼女が後頭部の具合を確認できるように僕は大きめの鏡を掲げていた。


「でも本当に何を書けばいいのかわからないわ。期限だってもうあまりないし」

 彼女は髪型についての感想は何も言わず、代わりにそう口にした。僕は鏡やその他の道具を片付けながら適当に相槌を打った。

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