随想 神について 中国人と魂の不滅について
神がいないということ。西洋的な神、唯一神がいないということ。それはつまりどういうことであろうか。
「いない」というのは「ここにいない」ということである。人間というものは部分的、局所的にしか存在することができない。そんな人間というものが言えることは本来それだけである。それ以上のこと、すなわち「どこにも神は存在しない」と言ってしまえばそれは嘘になってしまう。
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神が存在するということを証明する責任はそれを主張する人に課されている。神が存在しないということを信じる人々はそれを証明する責任を負ってはない。それは不可能だからだ。こう主張することは正しいであろうか。
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祈っても誰も応えてくれない。この絶望をそのまま裏返して信仰の基盤としたのがユダヤキリスト教なのではないか。詩編を読むとそう強く感じるのである。
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「ここにいないということは、どこにでもいないということだ」そういう無神論者たちの確信はどこからやってくるのであろうか。
つまり、「遍在していなければそれは神ではない」という確信が背景に存在しているのである。世界のどこかに超自然的な存在がいるのはよしんば認めるにしても、それが「神」であるとは絶対に認めない。それが「今、ここに」いないからである。神は「いつでもどこにいても触れられる、感じられるものでなくてはならない」という強い確信がなければそう思うことは出来ない。ではその確信は一体どこから来たのか。
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キリスト教は苦痛を肯定する。現世で苦しければ苦しい程天国では幸せになれる。それがキリスト教の論法である。この教えがあったからローマ帝政下のキリスト教徒たちは厳しい弾圧に耐え抜くことができたのである。
この苦痛は来世の幸福とは全く関係がない。むしろ表面上の苦痛を感じている人々はそれよりももっと高度な苦痛を感じることが出来ないので、天上の幸福を得ることができない。そういう考えに至った者はもう苦痛に堪え忍ぶことができなくなる。
歯痛や、過去のささいなトラウマに苦しんでいる人々は、しっかりと言ってほしいのである。歯痛こそが、あるいは身を悶えさせるトラウマ、幼い頃に暗がりで大人に体をまさぐられたことがあるということこそが、天国への入場許可証なのであるとはっきりと言ってもらいたいのである。暖炉の前に座ってコーヒーを飲みながら思索にふける貴族の憂鬱。そんなものは苦痛とは全く関係がないといってもらいたいのである。
苦痛を誰が決めるのか。結局それが問題となる。本来苦痛でないことを苦痛であるとみなす。それは罪である。そしてまさにキリスト教は罪の告白を推奨するのである。苦痛の罪への昇華。そこにこそキリスト教の肝があるのかもしれない。現代における告白の受け手は精神科医であるが役割は大体同じことなのかもしれない。僧侶は苦痛を罪に昇華させるが、精神科医は苦痛を苦痛と確定させる。
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日本の神は精霊に過ぎない。中国も同様である。中国においては「神」という言葉は元々人間の精神を指し示すものであった。
中国人は魂の不滅を信じなかった。自分が死んだら自分という存在はそれで消滅してしまうということを強く信じた。だから彼らは少しでも長く生きるために健康食品をかき集めたし、怪しげな宗教に凝ったりもした。あるいは自分がかつてここにいたということをできるだけ長い時間示し続けることができるように子孫繁栄に尽力した。要するに福禄寿に全労力をつぎ込んだということであるが、とにかく「死んだら虚無だ」という強い信念があったからそうしたのである。思想が未発達だったからそうなったのではなく、むしろ発達しすぎた結果そうなってしまったのだと私は考えている。
彼らにとって善行は現世利益のために行われるものであった。もちろん混乱の時代にはそんな建前など空しく吹き飛んでしまう。善行など無意味だ。なぜなら実際に善行した者の家は滅び、悪行をした者の家は栄えているではないか。そんな実例がいくつも転がっているではないか。こういうことが公然と言われるようになるわけである。
そういう時代に伝わってきたのが仏教思想であった。中国人は仏教思想のうち、輪廻転生の部分に特に注目した。つまり人は死んでもそれで終わりではない。善行を積めば来世でそれは返ってくるし、悪行を行えばやはり来世でそれは返ってくる。こういう思想が彼らには新鮮だったのだ。
しかし仏教はそもそも輪廻転生から抜け出すことを目的とする宗教であった。六朝時代の仏教指導者たちはこの矛盾に苦労した。そしてこの微妙な需給のずれを結局埋めることができず、仏教は中国ではすたれていってしまった。
魂の不滅を中国人は信じなかった。しかしそれでも彼らはそれなりにやってきたのである。
実存の不安を彼らは感じなかったか?もちろん感じた。だからこそ彼らは酒に溺れるのである。
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現代アメリカ人と中国人はよく似ている。両者とも長寿のために効果のあやしげな食品や健康法を次から次へと試し、系図を大事にし、新興宗教を好み、麻薬や酒に溺れる。魂の不滅の不信がそうさせるのである。アメリカ社会の分断はさらに進み、富裕層は富裕層で、貧困層は貧困層でさらに団結するようになる。そしてどちらの層も血縁を重要視するようになっていく。富裕層は富裕層で貴族となり、権力を守るために血縁を大事にするようになる。貧困層は貧困層で少しでも生活を楽にするために地縁血縁を大事にするようになっていく。富裕層は財力を使ってあちこち移動するが、貧困層にはそれが許されなくなってくる。インターネットは地縁強化に寄与する。一種の理想化された「家族」をモデルとするような宗教が出てきて、それがアメリカおよびアメリカと似た問題を抱えている国々を席巻する。「新儒教」の時代である。
階層からこぼれおちる者が出てきて、彼らが何か面白いことするようになるだろう。
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