演劇と心の関係について


 演劇というものはいつの時代から出現したのであろう。かなり早い段階から登場してきたのではないかと私は予想している。誰かの行動を真似るというのは動物の本能である。言語を手にした人間は、他人が言語を使って何かの行為をしているのを真似るようになった。それが演劇に発展していったのではないか。


 演じる人間とそれを観る人間がいないと演劇というものは成立しない。普通観客というものは「演じられている世界」には接触することができない。しかし演者の方は、観客に向けて話かけることがよくある。これは演技によって説明しきれなかったことを観客に説明するために行うのである。演劇についての理論がまだあまり発展していない原始時代にはそういうこともよく行われたであろう。

 さて、ここである観客がひどく演劇に感動したとする。観るだけでは我慢することができず、自分でも真似したくなったとする。誰でも観客を集めることができるわけではないので、彼は一人でこっそりと演者になったとする。彼は勇者と竜と姫を全部自分で演じる。剣で竜を倒す。倒される竜を演じる。姫を助け、助けられる姫を演じる。筋書きは全てわかっている。どういう風に竜が動き、どういう風に倒されるのか、どういう言葉を姫が言うのか。そういうことは完全に覚えてしまっている。何度も何度もくり返し見ていた劇を、今度は自分で演じているのである。そして劇は進み、やがて観客へ語りかけるシーンに差し掛かる。もちろん演劇は一人で行っているので観客はいないのである。…さて、彼は誰に向かって話しかけているのであろう?観客はいない。観客を自分で演じるわけにはいかない。観客はそもそも劇の外にいる存在だからだ。語りかけを飛ばして演劇を続けることもできるだろう。しかし、もしその語りかけのシーンに一番彼が感動していたとしたら?「まさにそこを演じたくて劇を始めた」のだとしたらどうだろう?そこを飛ばしてしまうわけにはいかない。では一体どうするのか?意を決して観客も自分で演じてしまうというのはどうだろう?しかし観客としての自分とはそれはすなわち普段の自分である。もっといってしまえば本当の自分である。ここでパラドックスが生じる。本当の自分から逃れたくて演劇を始めたのにも関わらず、ここに至っていつもの自分、本当の自分と直面せざるをえなくなってしまったのである。


 それは本当の自分ではなく、あくまで「観客としての自分」にすぎないと嘯くことはできるだろうか?しかし「観客としての自分」もまた虚構にすぎないと認めてしまうことが果たしてできるだろうか?そうなると演劇を見た時の感動、そもそも演劇を自ら始めた理由であるあの感動までも否定してしまうことになる。それを防ぐためにはもはや「観客」をも舞台の上に引き上げてしまうしかない。つまり、観客もひとつの登場人物にしてしまって、それに対する語りかけも一つの台詞に統合してしまうのである。しかしこれでは観客は存在しないことになり、語りかけは最早語りかけでなくなってしまう。


 かくして演者は当初の問題に帰ってくる。つまり語りかけの段階で、自分と向き合ってしまうという問題である。何が起きるかということはわからないが、とりあえず語りかけてみる。観客はいない。何の反応も返ってこない。やがてそれに耐えられなくなった演者は演者であることをやめて、一瞬だけ観客に戻る。観客としての自分はまぎれもない本物の自分である。つまりその時点で、語りかけは、「自分への語りかけ」になってしまうのである。


 自分への語りかけというものが成立するためにはどうしても同じ瞬間に自分が二人存在するということを認めなくてはならない。この、確かに存在する自分以外の自分。そういうものを人は心と呼ぶようになったのではないだろうか。つまり、心というものは演劇が生んだというのが私の主張なのである。

 この、心に対する問いかけは、さらに発展して独白と呼ばれるようになった。そうなると最早観客は演者の語りかけを、自分たちへのものだとは思わなくなる。あくまで演者(正確には演者の演じる虚構)が、演者(やはり演者が演じる虚構)に対して語りかけているのだと思うようになるのだ。人間は心を持つのが普通なのだと人々が考えるようになると、演じられる虚構の人間もまた心を持っているのだと人々は考えるようになるのである。


この心なるものが発明されると、演者と観客との間に横たわる壁はさらに大きく厚くなる。どんな切実な語りかけも最早独白としか思ってもらえなくなるからである。演者はあれこれ手をつくして観客に対して語りかけようとする。観客の目を見て、名前まで呼んだりする。それでも観客は自分に対して呼びかけているのだとは思わない。そうなると演者は結局観客に到達するために神に頼るしかなくなる。世界の外側にいる唯一の存在が神であり、虚構の世界にもまた神がいるなら、神はきっと演者を(虚構を)演劇の世界の外に連れていってくれると思えるからである。こうして演劇論は神学へ、そして最終的には哲学へと発展していくのである。ギリシャにおいてはまず悲劇が発展し、そして哲学の発展につながったというが、これは私としては非常に納得のいくことである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?