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ぼくとフランソワ・シモンさんの15年。 15.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

店をスタートする直前、勉強のためにと視察に行ったことでレベルの違いをまざまざと見せつけられ、ぼくが勝手に打ちのめされた気持ちになった青い麦の福盛先生とコムシノワの西川シェフ。
このお二人を目標にスタートを切ったぼくは、その後もやはり意識していた。

関西にもちょっとしたハード系のパンブームがやって来て、関西の女性誌などでパン特集が組まれると、いつも決まって青い麦さん、コムシノワさん、そして山﨑豊シェフが立ち上げられたブルディガラさんといった超実力者たちのお店と並んで掲載された。
この頃、現在パリ在住の伊藤くん(シモンさんのサインを翻訳してくれた弟弟子)がコムシノワさんで修業中で、女性誌や専門誌などで一緒に掲載される度にぼくは伊藤くんに電話をしてこんな会話をしていた。

「西川シェフ、うちのパン見てくれてた?うちのこと何か言ってなかった?」

「いや、何も言っていないですね・・・一緒に掲載されてた他の店のことはいろいろ言っていましたが、ボンさん(ぼくがお師匠さんに付けられた渾名)の店のことは何も言っていなかったですよ」

毎回この調子だった。
悔しいな、ぼくはまだ西川シェフの視界にすら入っていないのかとずっと思っていた。

Casa BRUTUSに掲載後、ぼくは西川シェフへご挨拶に行く機会を得た。
まだお会いしたこともなければ、どんな方なのかもわからず、このブラインドテイスティングでコムシノワさんの上位になったぼくは、嫌味の一つでも言われることも想定し伺った。
西川シェフが最初にかけてくださった言葉は、「見たよ、西山ちゃん。凄いね~!」という拍子抜けするほど気さくな言葉だった。
ぼくは、やっとあの西川シェフの視界に入れたと思えて嬉しかった。

Casa BRUTUS掲載以降、すぐにお客様が増えることはなかったけれど、それ以前と以降で明らかに変わったことがある。
一つは、専門誌やメディアで目にするだけで、お会いすることのない別世界の人だと思っていた東京のシェフや関西の著名なシェフにお越しいただけるようになった。
ビゴさん、福盛先生、仁瓶さん(ドンク)、山﨑シェフ、淺野シェフ(元カムシャングリッペ)、西原シェフ(オ・グルニエ・ドール)、永井シェフ(ノリエット)、藤森シェフ(ビゴ東京)、鎧塚さん(トシ・ヨロイヅカ)、辻口さん(モンサンクレール)、池田シェフ(元オーバカナル、現 レスト)・・・

次から次へとお越しいただくスターシェフに、ぼくは舞い上がった。
後に聞いた話では、東京のシェフの間で「プチメックに行ったらサインをくれ。と言われるらしい」と噂になるほどぼくは喜んでいたし、シェフのみなさんには実際にサインを書いていただいた。それは当時、店が潰れそうだったぼくにとって唯一と言っていい励みになっていた。

もう一つ変わったことといえば、それまで取材が関西圏の雑誌だったのに対し、全国紙、専門誌からの取材が劇的に増え、メディアがメディアを呼ぶという好循環はその後も続いた。

そして「もう思い残すこともないかな」と、店の維持継続を諦めかけた4年目頃、突然店が忙しくなりはじめた。それは、まるで別の店かと思うほどの変わりようだった。
決して交通の便が良いとは言えない街場の個人店、それも潰れそうなほど暇だった店のクロワッサンが突然、毎日100個以上が早々に売り切れるようになった。
また、毎日並ぶお客様の車は他府県ナンバーだったから、Casa BRUTUSの影響と考えて間違いなかった。

つづく


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