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退屈なヒットチャートにドロップキック

もうしばし、凡人による天才の考察を。
ここでは便宜上、天才的、天才肌、天才気質などすべて天才と述べることにする。

天才と呼ばれる人を目にするとき、ぼくは羨望の眼差しを向けている。それは間違いなく、自分とは縁のない傑出した才能に対する憧れである。
また「天才」という言葉からは、天賦の、唯一無二の、といった甘美な響きも漂っているものだから、ますます魅かれる。
けれど、そういった華々しいイメージがある一方、孤独、孤高、絶望、儚さ、破滅といった影のイメージを併せ持つのも「天才」だ。
この相反するものが同居する危うさがまた、多くの人を魅了する要因なんだろうなぁ、と思う。先述の「恍惚と不安」はまさにそれを言い得たものだし、「天才と狂気は紙一重」という表現もまた同様である。

選ばれし天才って、なんだかカッケーな。なんて能天気に思えるのは、自分がそうでないからに他ならない。その存在は当然、圧倒的マイノリティで、言葉は適切でないかもしれないけれど、ある意味社会不適合者のような人だとも思っている。これは褒め言葉と解釈してほしいんだけれど。
しかし当人にとっては、そういった憧憬の的である悦びよりも「周囲から理解されない苦悩」による生きづらさの方が現実的には大きいのだろうと推察する。

そういった意味では、天才の中でもスポーツ選手などはまだ良い方だと思えてくる。成績や勝敗を数字で表すことが可能な分、その凄さや天才ぶりを周囲の人へ一目瞭然で伝えることができる。将棋がよくわからないぼくでも藤井聡太さんの凄さがわかるのと同じ理屈だ。
他方、研究職や絵画など、抽象的なものを扱われたり創作されているような天才は、やはり一般人にはなかなか理解されない苦悩があるのだろうな、と想像する。


現在のように、海外へ日本のポップカルチャーの発信がまだ容易でなかった時代、音楽性の高い作品は海外で評価をされるけれど、それらが日本のヒットチャートにはまず登場することがない(その逆も然り)、といった話があった。
言わんとすることは、とてもよくわかる。

食べもの屋さんでもこだわればこだわるほど、本物に近づければ近づくほど、お客さんの理解からは乖離し評価されなかったり、売れなくなることはある。だから日本人に合わせたものや日本風にアレンジしたものの方がウケが良く売れたりする。多分、これと同じ現象なんだろうと思う。

「秩序のない現代にドロップキック」と歌詞を書き、歌った人がいる。
そこには、秩序のない現代だけでなく「退屈なヒットチャートにドロップキック」ともあった。
その解釈は聴いた人それぞれだろうけれど、自分たち自身が席巻していた日本のヒットチャートを自虐的に揶揄するのが、ぼくには愉快に映った。それはまた、大人たちに踊らされているんじゃない。踊らされているフリをしているだけ。と示唆しているかのようにも聴こえた。

昔、そんな彼のインタビューを音楽雑誌で読み、印象的だったものがある。
まだアマチュアバンドだったころ、練習中にスタジオを飛び出した彼は人目のつかない場所でひとり涙した。それは、突出した才能の彼と他のメンバーとの技術的な差に落胆した悔し涙だった。
おぼろげな記憶だけれど、確かそんな話だったと思う。

ぼくはインタビューを読みながら「理解されない苦悩」だったんだろうなぁと、選ばれし者である当時の彼に思いを馳せた。


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