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初詣

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

どうしても行きたいわけでもなければ、行かなくても構わないとも思うけれど何となく初詣に行っている。
もともと人の多いところが苦手なので、午前0時をまわると同時にお参りに繰り出すというわけでもなく、元日の夕方以降人が落ち着きはじめたころを見計らって行くことにしている。

ぼくは特に信仰している宗教もなければ神様の存在も信じていない罰当たりなタイプなので、お参りに行くのもどこでもいいと思っているけれど何年も二重生活が続いているので、年越しをする場所もその時々で京都だったり東京だったりする。
ここ2年は京都で年越しをしているから下鴨神社さんへ行っているけれど、これが東京だったら花園神社さんになる。
それぞれ住まいに近いからという理由しかない。

いま思えば、中学生のころに感じていた大晦日から元旦に変わる瞬間のあの高揚感は一体何だったのだろうと思う。
育ったのが田舎だったから日常生活の中にこれといった娯楽がなかったせいとも思えるし、深夜に堂々と友達たちと遊べるという特別なイベント感があったのかもしれない。
いずれにしても信仰心や礼拝といった尊い気持ちで行っていたわけではないし、そういった気持ちが欠如しているのは中学生のころもいまも変わらないけれど、おじさんとなったいまでは眠いし寒い中、深夜に並んでまで初詣へ行くより暖かい部屋で録画しておいたお笑い番組や格闘技を観ている方がいい。

こんなぼくでも初詣に行けば、他の方と同じように一連の行動はする。
神様の存在を信じているわけではないけれど、せっかくお賽銭を入れるのだから一応お願い事もするし、もしそんな少額で願い事が叶うのなら費用対効果はとても高いな、なんて思う。

そういえば、こんな罰当たりなぼくの引いたおみくじが昨年、今年と2年続けて大吉だったけれど、それこそがやはり神様がいない証拠じゃないかと思えてならない。
ぼくは、おみくじの扱いをよく知らない。引いたものが良くなかった場合は神社にくくり付け、良いものの場合には大切に持っておくといった話を聞いたことがあるけれど、昨年大吉を引いたぼくは「神様に頼る気なんてない」と言って、ちゃんと中も読まずにその場にくくり付けて帰った。
ところが今年は隅々まで読み、「事業 ますます繁昌する」という文言を目にしたぼくは、ちゃんと持ち帰って大切に保管している上に「とりあえず今年は神様を信じることにした」なんて言っている。

この気まぐれは数ヶ月後に控えたイベントに起因するけれど、我ながら人間なんて勝手で弱いもんだな、と思った今年の初詣だった。



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