与えたつもりが、受け取っている
お盆休みに帰省し、1泊目にしてもう帰りたいと思っていた。
部屋の中で常に誰かが話をしている。
副音声的にあちこちで話し声がする。
その賑やかさに疲れ、静かな自宅が恋しい。
子どもたちが寝た後にやっと自分の時間だと思ったら、親に話しかけられる。なんの本を読んでいるのか?勉強しているのか?
適当に返事をして、大人げないな、と思いながら、同時に放っておいてくれ、と思う。
私は誰かと同居するなんて一生無理だな、と思う。
実家は流れている時間が違う。
隙間だらけのように感じるのに、何かできるような時間は確保できない。自分の時間がたっぷりあるようで、全くない。
早く帰ってゆっくり自分だけの時間を過ごしたい。
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お盆休みに子どもだけで遊びに来た従兄弟たちの世話をするのが、今回の私の役目だ。
一緒に映画を見て、ゲームをし、食事をしたり、写真を撮ったり、わちゃわちゃと過ごす。
狭い車に乗り並んで座る。
目的の映画館に向かう間に、従兄弟たちの日常生活の様子をきく。
どんな芸能人が好きなの。
スマホは持っているの。
サッカーの練習は週にどれぐらい。
今後の我が子の参考にできるかなと思い、思いつくままに質問をする。
屈託無く、正直に答える従兄弟たちが可愛い。
子どもたちは、距離感が近い。
狭い車内にいるとなおさらだ。
腕と腕が密に触れる。
こどもの肌は熱い。
話をしているとどんどん寄りかかってくる。
重いし暑い。
映画館に着くと映画よりも楽しみなポップコーンを買う。嘘みたいに大量のポップコーンに子どもたちはさらにはしゃぐ。
売店は予想以上に混んでいてい少し遅れて入場すると、宣伝が始まっていた。
「はじまる前のこういうのは怖いのとかあるから、もっと遅く来ればよかった」と、普段は生意気な従兄弟がかわいいことを言うので笑ってしまう。
おもちゃたちが奮闘する映画は子ども向けだと思っていたけれど、予想外に奥深く見入ってしまった。
映画を見終えて、食事に行く。
混んでいる待ち時間もじっと過ごすことができない子どもたちを連れて店を出る。
走りたいと言い出すので、やれやれと思いながら、付き合う。
食事中も、水が欲しい、トイレ行きたい、箸が落ちた、、、とにかくひと時も放っておいてはくれない。
高齢の両親にはやんちゃな幼小学生の相手は体力的に厳しい。
私だって全然若くないから、結構きついけれど、両親よりは少しは動ける。
子どもたちに楽しかったと思ってもらいたくて、変なこと言ってみたり、変な顔してみたり。
普段やらないことをしているからか、途中から頭痛がひどかった。
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それでも、楽しかった。
ふと、私が癒されているのではないかしらと思う。
提供しようとしていることで、逆に受け取っている。
トイレに行きたいと誘われて、はいはい、とついて行く。
お水が飲みたいと言われて、はいはい、とコップを持って立ち上がる。
ねえねえ、と何の気なしに手を繋ぎ肩を組む。
この距離感で私は癒されていた。
隙間の時間を笑顔で埋めていた。
忙しなく世話することで、求められることで、笑顔でいられている。一人にならなくて済む。頭のなかがうるさくならずに済む。
与えているようで、受け取っている。
お世話をしているようで、お世話をされている。
笑わせようとしているようで、笑わされている。
ああ、ここでも循環しているのだなぁと思う。
能動的であるときにこそ受け取ることができる。
音楽や言葉もそうであるように、人と人との関係も、自分が能動的な状態でいる時に受け取る準備ができている。
働きかけて、受け取って、心が動いて、また反射的に働きかけて。
一方通行だと感じる時は、何かが不健全なのだろう。
実家で過ごすような、ペースを乱されることの中に新しいことが潜んでいたりする。
従兄弟の子どもたちとの半ば強制的なやりとりの中で、めぐりめぐる循環のなかにいる心地よさを、ほんのりとした喜びを感じることができた。
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