周りとズレた視点との共存
小さな頃から、「こうしたほうが楽なのに」「こうした方が面白いのに」いつも思っていた。その意見は、みんなと違う意見として見られるのが嫌で、保育園~小学校の間はソレを殺して生きていた。
別にその事であぶれていた訳でもないし、その時期のことは楽しい記憶として残っているので、特に問題にはならなかった。
でも小学校低学年くらいから「周りに合わせて動く」ことのつまらなさが増してきた。
ちょっと辛くなってきたのだ。
遊び1つとってもそう。
私は別に休日も友達と遊ばなくてもいい。家で本が読みたい子だった。
でも、誘われれば行かなきゃいけないっていう義務感は持っていて、やりたくない遊びを1日中やる。何より疲れる時間の使い方だった。
もしかしたら、そんな私に友達も疲れていたかもしれない。
今もそうだけど、私は集団に属することが苦手だ。すごく疲れる。
好き勝手に動く方が好きという訳でなく、相手の顔色を伺いすぎるので、自分で勝手に疲れているだけなのだけど。
でも、同じように疲れていたり、あぶれているような子には目が行く。よく目に入るのだ。
決してワガママだった訳ではないし、外れ物だったという訳でもない。
ちょっとだけ感じていた視点のズレ。
それを言葉に出すと「え?」みたいな目で見られてきた。
中学生、高校生と学生生活を経て、今となっては自分のその「視点」が役に立っている。
時代の変化もあるかもしれない。
「ナイスアイデア」として、その周りとズレた視点は、ありがたいことに重宝されたりおもしろがられたりしている。
世をずらして真ん中にくることも出来なかったし、どちらかと言うとはみ出してた訳でもないのかもしれない。
小さい頃のあのなんとも言えない感情や、その生い立ちを思い出しては言語化するきっかけになった。
星野源さん、創造のリリースに伴う発信を見ていてふと思い出したこと。
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