続・ラカンへの道のりは遠かった
70ページくらいまでは読んだがこれは、、、
言語としては理解できる
講談社メチエ文庫『ラカンの哲学』を読んでいる。
例えばヘーゲルのアウフヘーベンとか、ソシュールの生成文法のような概念は、完璧ではないにせよ一般的な意味で誤謬なく理解できていると思っていて、
そういう意味で、ラカンがどのような文献を考察の材料にしていったのかということは理解できる。
言語としては。
だが、出てくる言語が包含している意味がわからなかったり、文献に対しての知識がないがために、
筆者の論の展開についていけてなかったり、
引用されるそれぞれに対して、主旨のピントがあってなかったりで、
内容があまり頭に入ってこない。
特にラカンの論に入るまでは流し読みしてもいいかと考えたが、
ある程度斜め読みして本編の中枢に触れると、要するに、ラカンの論旨の説明に、
前半部分ですっとばした論や概念に対する視点が丸っと使われていて、
「パルスのファルスのルシがコクーンでパージ」みたいな、
何言ってんのか全然わからんけど誰かがどっかから切り離されたのね、みたいな
あっさーーーいあっさーーい虚無だけが残る、
みたいな状態になってしまい、これはいかん、、、と慌てて本を閉じた。
俺にはラカンは早すぎたんだ、、、
それでも光明があって、
要するにフロイトから順番に追っかけてみるのもいいかな、と思っている。
全ての哲学者を追うことなんて到底出来ないし、哲学の類系によって対象としてるモノが全然違ったりもするだろうから、
少なくともラカンに繋がっていくような哲学者、精神分析学者、社会学者と、精神分析の他のいく人かは辿ってみたい。
長い長い道のりになりそうだ。。。
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