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生と死
10代の頃、
私は死についてばかり考えていた。
とにかく、何もかもが面倒くさくて、面倒だと死にたくなった。
周りの同学年の子たちが、恋とか、友だちとか、小さい世界の目とか、そういう類のことで悩んでいる気持ちがわからなかった。
今日、自分が生きている。
このことが面倒で仕方なかった。
じゃあ生きているのが面倒だから、死んでしまおうと思って、部屋のベランダから飛び降りようとした。
その時の気持ちは、朝ご飯はパンにしよう、ぐらい軽いものだった。
だけど、飛び降りるどころか、そうしようという意思を持って下を見ただけで、全身が強張った。
体の全細胞が拒否しているように感じた。
この瞬間、自分の中には、たくさんの細胞があって、それぞれに意思があることを感じた。
それはそれは恐ろしい体験だった。
私の意思とは何だ。
命とは何だ。
私とは何だ。
どこからどこまでだ。
細胞の羅列にすぎないなら、この手と、この手が触れた物との境目は何なんだ。
とにかく若い自分には意味が分からなくて、吐いた。
本能に従えばいいのか。
子どもでも持てば落ち着けるのだろうか。
そんなこと思うやつは子どもなんか持っちゃいけない。
世間に従えばいいのか。
ちゃんと勉強してちゃんと就職して、世間の「ちゃんと」に従っていれば安心だろうか。
そんな「普通」を甘くみてるやつは、何もできないだろう。
とにかく、考えた。
どんなに病んでも、考えるのをやめなかった。
人と違くても、無理やり同じにして安心することはない。
今もわからない。
自分とは何か。生きるとは何か。死とは何か。
けれど、死ぬまで考えるだろう。
こんなことを考えていた私が、親になった。
私には答えがない。
子どもに教える答えなんてない。
ただ、一緒に考えることはできる。
何か壁にぶち当たった時、「周りの基準」とか「正解」を教えるのではなく、自分の頭で考えて、自分の手で道を作れるようにしてあげたい。
この子がお腹から出た時、
ああ、もうこの子は私のものじゃない
と思った。
この子の心も身体も、この子のもの。
自分自身の人生を生きてほしい。
そして私は今、あの時思いつきで死ななくて良かったと思う。
悲しいニュースが続いている。
人の心の奥の奥なんて、誰にもわからない。
でもいつか必ず誰にでも死が訪れるなら、その日まで、生きてみてもいいと思う。
面倒は多い。
でも、結構。
終わりがあるから悲しみもあるけれど、どんなことも限りがあると思えば、案外、どうってことないのかもしれない。
だから私は、最期まで生きる。
どうせなら、楽しいといい。
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