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オリンピック後遺症

 オリンピックが終わってしまうと激しい虚脱感に襲われる。
 周りから見ても抜け殻のようになっていることがわかるらしくて、オリンピックが開催されている以上に、オリンピックが終わったことをはっきりと感じるのだそうだ。

 僕自身がオリンピックに出場することは遠くにある夢で終わったわけだけれど、実際に出場していたらやはり虚脱感、燃え尽き症候群みたいになったのだろうかと想像したことがある。
 でも、何度考えてみてもレースが終わったところで虚脱感に襲われる姿は想像できない。自分と世界の差、他の選手との差は誰より選手自身がわかっていることだから、テレビ観戦で結果が予想できないワクワク感など微塵もないと思う。
 接戦になるような実力差なら、目の前のレースにどう望むか、結果が出た後もどうするべきだったかを考えるだろうし、そもそも僕が出場していたとしたら、宝くじに当たらないのと同じくらいの確実さで予選敗退していたはず。燃え尽きようにも燃料がない、虚脱感に襲われる前に世界とのさに呆然とする自分の姿が浮かぶというわけだ。

 これが例えばプロ野球のペナントレースや、Jリーグのように1シーズン掛けて覇権を争うようなスポーツなら、その日の勝敗に一喜一憂することもなく、純粋に観戦を楽しむこともできる。だが相手は4年に1度しかやってこない場であるから、選手同様にこちらもつい余計な力がこもってしまう。
 結果、閉会式が終わった後に残るのは、空気の抜けた風船のような我が身なのである。

 オリンピックが終わって今日で3日目。まだ虚脱症状からは抜け出すことができず、何をするにも集中は続かず(普段から続かないとも言えるが)、何をやってもピントのずれたことをしがちだ。
 せめては小説でも読んで、違う世界に没入しようかと本を開いてみるのだが、緊張と集中が極限まで達している選手たちの表情、競技が済んだ後の高揚と落胆、順位が決定する瞬間の歓喜に対抗できるほどの力はなくて、知らぬ間に数ページ飛ばして読んでいたり、5分経っても同じページを読んでいるといった有様である。

 「祭りのあと」とよく言うけれど、特殊で異常で、どこまでも非日常な時間から一気に日常に引き戻されたときの精神の乱高下にはすごいものがある。もしかしたらそのアップダウンに頭と心がついていけないのかもしれない。

 そうしている間にパラリンピックが始まり、やがて10日後には同じ虚脱感が待っているのだと思うと、巷間言われる「スポーツの遣り過ぎは健康に良くない」ということに深く深く頷くしかない。
 それでも4年後がすでに楽しみで、4年後には間違いなく観戦しまくるのだろうから、これはもはや「五輪中毒」と呼んでも差し支えがないのではないかとすら思うのである。

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