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箱根駅伝と小説の自由さのこと

 箱根駅伝から始まる正月2日。
 もはや「朝起きたら顔を洗う」のとさほど変わらない習慣になってしまっている。
 学生たちがただ走る。必死に走る。体力の限界を超え、目に見えているものが何なのかもわからなくなっていても、「次に繫ぐ」本能だけで走る。
 襷を渡した後には壊れた人形のように動けなくなる選手たちの何を見たくて6時間近くもテレビの前に座り続けているのが、自分でもわからなくなる。だが、それでも見るのをやめる気にはならないのだ。

 「物語の要諦とは」とまとめてしまうのはあまりに陳腐だ。
 でも、箱根駅伝には見る人を引きつけて離さない要素がいくつもあるのだと思う。言葉にできるものや、そうでないものが絶えず生まれては消え、消えたと思ったらまた湧き上がる。
 闘争心と勇気と孤独さの隙間に入り込もうとする諦めや不安、苦しみ、迷い。ネガティブな感情を拭い去るような監督の励ましやチームメイトのサポート。そうしたものが箱根駅伝を僕の毎年の習慣にしてしまっているのだと思う。

 箱根駅伝を題材にした三浦しをんの小説『風が強く吹いている』は荒唐無稽な話だ。現実なら、ろくに長距離を走ったことがない人間がいきなり箱根駅伝レベルのランナーになれるはずがない。
 走るということを知っていればいるほど、現実離れした設定だと感じるだろうし、ともすれば呆れ、怒るかもしれない。
 だが三浦しをんの小説には現実の箱根駅伝が発する何かがしっかりと書き留められている。だから設定がどれだけむちゃくちゃであっても読者は引きつけられてしまうのだ。

 昔から「事実は小説より奇なり」と言われる。
 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」ともいう。
 小説で人が犬を噛んでも不思議ではないが、現実社会で犬に噛み付く人がいたら、すぐさま警察に連絡がいくことになるだろう。
 小説を書こうとすると、やれ「設定が現実ではありえないから……」と気後れしがちになることも少なくないが、現実に頻繁に起きるようなことをわざわざ小説になどする必要はないのだ。事実の方が小説より「奇」なのだから。
 小説は自由でいいのだ。練習で鍛えた陸上選手よりも速く走るスーツ姿に下駄履きの一般人がいても構わない。それぐらい荒唐無稽な設定であっても、小説世界では十分に起こり得ることだとすれば、やっぱり小説は自由なのだなと実感する。
顔が歪み、脚は動かず、それでも懸命に前に進む選手の姿を見ながら、頭の中ではこんなことを考えていた。
 往路の選手諸君にはまったくもって申し訳のないことであった(でも明日の復路も当然見る)。

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