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拙いこと

 昨晩、2時近くまで小説を読んでから灯りを消したあと、心地の良い夢を見ていたと思ったら全身が震えだして目が覚めてしまった。
 別に何かの発作が起きたわけではない。単に寒さに震えて目が覚めただけだ。横向きに眠る癖があるのだが、左胸に機械が入っているために右側を下に向けてしか眠れない。そこにもってきて肩幅がまあまあ広いもので、背中にできた隙間から冷たい空気が流れ込んだというわけだ。

 震えは白湯でも飲めばすぐに収まるから、問題はない。ただ、そのあとに眠気が来るまで少し時間がかかってしまうのが困りもので、いつも少しだけ読書をするなどして再び眠くなるのを待つ。
 昨晩は気が向いてPCを開き(これはこれでよろしくないのだが)、公開されている新人賞を目指している方たちの作品をいくつか拾い読みしていた。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
 これはヤクルトスワローズ、阪神タイガース、楽天イーグルスを率いた故野村監督の名言だが、拾い読みをした作品にもこれは当てはまるものなのだと感じた。
 僕にもジャンル的な好みはあるし、文体や書き方にも好みがある。いや、好みなんて肌触りの良いものではなくて、僕の好悪には柔軟剤でフカフカになったバスローブと洗いざらしの柔道着ぐらいの差がある。でも昨晩感じたのは「面白い/つまらない」という違いではなく、巧みさと拙さの差みたいなものだった。

 小説である以上、題材がつまらなくては仕方がないとも言えるのだが、題材のことを脇に置いてもまだまったく足りていない感じが残る。その不足感は「技術」なのではないかと思った。
 「技術」と書いてしまうと「技巧」とか「比喩」といった方向のことに誤解されそうだけれど、そうしたギミックではなく、もっと基本的な部分——小説として収まりの良い書き方がされていないものが結構あると気づいて、勿体無いなと思ったのだった。

 僕も人のことを言えるほどうまく書けるわけではない。気づいたのは「傍目八目」というやつに違いない。だが気づくことができるということは、修正も可能だということだから、気づいたということを喜ぶべきなんだろう。

 と、ここまで書いて、「そういえば写真も同じだなあ」と気づいた。
 綺麗な写真が撮れたと本人が思っているのを見てみると、確かに綺麗ではあるのに、まったく面白くない、何も写ってない写真というものが実に多かったりするわけです。
 あれは見せられると苦痛なんだよなあ。
 そんなことを考えていたら、再び眠れたのは4時近くになってしまってました。

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