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【掌編小説】 カプチーノ

 シーズンも終盤に差し掛かると、試合が終わったあと、秩父宮ラグビー場近くでコーヒーを飲むことはなかなか面倒なことになる。
 試合前からフルタイムの笛が吹かれるまでの約2時間、冬の冷たい空気で冷え切った体を温めるべく、観客たちは近隣のカフェやレストランを目指すためだ。
 ひさしの下のメインスタンドにはそもそも日が当たらない。バックスタンドも西日が当たるものの、風は吹きさらしだ。
 年季の入ったラグビー好きたちは、試合後のスタンドで「あの5メートルスクラムはよかったよな」などと、感想戦とも素人講釈ともつかない勝手な批評をしながらゆっくりと席を立つが、母校のチームを応援にきた観客は最寄りのカフェやコーヒーショップを目指して、早々にスタンドを後にする。

 ガールフレンドと僕が入ったオープンテラスのレストランも、5つあるテーブルのうち、4つがすでに埋まっていた。
 店内の席は満席。
 それぞれのテーブルに傘を開いた巨大なキノコのようなストーブが置かれてはいた。他のテーブルの客を見ても、それほど寒くはなさそうに思えた。
 それでもまだ迷っていると、「ストーブがあるだけマシでしょ。入りましょ」と彼女は躊躇なくレストランに入っていってしまった。
空気の冷たさよりも、まともな椅子に座ることの方が、その時の彼女にとっては重要な問題であるかのようだった。

 伸ばされた日よけのシェードがかろうじてかかるその席は、見た目よりはずっと居心地がよかった。きちんとデザインされた椅子は座ってもしっかり落ち着く。置かれていたクッションも適度に柔らかく、椅子の冷たさを遮断していた。
 ストーブの熱はしっかりと伝わって来て、コートは必要なかった。
 僕たちは椅子から立ち上がって、着ていたコートをウェイターに預け、坐り直す。それからはいささかフォームドミルクの多いカプチーノを飲みつつ、たわいもない話に興じた。

「ねえ、後ろの席の人たち、面白い話をしてるよね」
 彼女が目線を向けたのは僕の背中側のテーブルに座った客のことだ。
 30歳手前くらいの男性の二人組。口調から友人同士であることはわかる。一人は短く刈りそろえられた会社員然とした雰囲気で、もう一人は無造作に伸ばした髪にライダースジャケットを着ている。ミュージシャンかその類の仕事をしているようだと、店に入ったときに僕は観察をすませていた。

「短編小説の話をしてる」
「そうだよね。さっきからカーヴァーとかアーウィン・ショーとか言ってるもんね。同級生だった人たちなのかな」
「どっちの人が喋ってる?」
「こざっぱりしてる方。ライダースの人は時々反論してる。あ、今度はチャンドラーだって」
 僕の耳にも話のテーマがレイモンド・チャンドラーになったのが聞こえた。ジッポーを開く音がして、少し遅れて煙草の匂いが流れてくる。ピースの甘ったるい香りと、ゴロワーズの濃くて強い匂いが混ざって薫ってきた。

「だからさ、チャンドラーの本質は長編じゃないんだよ。結果としてマーロウのシリーズも長編で成功はしたけれど、本質としては短編作家なんだって」

「お前こそわかってないよ。チャンドラーの長編はほとんどが短編、中編の焼き直しなのはお前だって知ってるだろ。結局、短編や中編じゃチャンドラーの目指したものにまで至らなかったのさ。短編を多く書いたから短編小説家ってわけじゃない」

「長編にするだけの要素を短編に織り込む技術があった証拠じゃないか。それこそチャンドラーが短編小説かだったと証明してる。チャンドラーのファンは、みんな気の利いたセリフとか、筋に囚われすぎなんだよ」

「そんなのお前が短編小説好きの偏った目線で見てるだけだろうが!」

 食器がぶつかった大きな音が聞こえた。
 きっと熱くなったサラリーマンの方が、テーブルでも叩いたんだろう、と僕は思った。

「なかなか熱のこもった議論になってきた」
 僕は少し冷めたカプチーノのカップを持ち上げたまま、背もたれに体を預けた。より近くで背後の二人の会話を盗み聞きしようと思ったのだ。
「でも周りも気にせず、あんな風に議論できるのって、ちょっと良くない?日本であんな風に議論するのなんて見たことないもの」
 彼女は僕の背後にちらちらと視線を向けつつ、言った。議論の中身よりも、議論することそのものに感心しているようだった。

「ちゃんと議論できる大人になれるかどうか、僕は心配だよ」
「これからの努力に期待かしらね」
「それにしても、チャンドラーが短編作家かどうか以前に、ハードボイルド作家なのは議論にならないのかな。そもそも……」
 彼女は僕が言い終わる前に、いきなりテーブルを両手で強く叩いた。カップはソーサーの上で横倒しになり、残っていたカプチーノがテーブルの上に流れ出した。
「私、帰るから。じゃあね。バイバイ」
 彼女は目の端で僕をにらみ、そのままコートを手にしてレストランを出ていってしまった。
 周りのテーブルの客たちは僕を少しだけ観察して、すぐに素知らぬふりをして会話を続けている。きっと僕のことも話しているはずだ。
 僕は短い間に起きたことを頭の中でプレイバックしてみたが、何もわからなかった。
 気がつくと背後の二人の姿はすでになく、ソーサーにはこぼれたカプチーノを吸って柔らかく膨らんだシナモンスティックが残っていた。

(了)
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(あとがきはこちら)


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