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筋が先か、人が先か〜人物造形の話

 小説を書き始めるときに最初に閃くのは設定の場合がほとんどだ。
 稀にストーリーが最初に浮かぶこともあるけれど、それはとても断片的で、最初から最後まで理路整然とした筋であることはない。
 設定はさらに断片的で、しかも成立するのかどうかも怪しい。それでも閃いた設定の周囲を考えているうちにサイズはどんどんと大きくなり、関係してくる人間の数は増え、環境も細部まで少しずつクリアになってくる。
 ここまでくると「これは書けるかもしれない」と根拠不明な自信が湧いてくる。だがそれはまやかし、陥りがちな巧妙な罠、とんだ見掛け倒しの場合がほとんどだ。

 なぜか。
 それはシチュエーションを物語とは関係のないところから傍観しているに過ぎないからなのではないかと思う。ちょうどドラマを映している画面を眺めているみたいに。
 ドラマを見ているとき、いかにも物語を深く理解しているように見えて、実は表層を流れる筋を追いかけているだけのことが多い。
 僕はひねくれているので、意地悪く裏読みしたり、斜めから見ては一人で勝手に文句をつけていることもしばしばあるけれど、それでもどうしても筋を追う方に気を取られてしまう。途中で見るのをやめてしまうほど退屈な物語であっても、物語にはそういう力があるのだと思う。

 普段からドラマを眺めるということに知らず知らずのうちに慣れてしまっているからか、突然閃いた設定も同じように捉えがちで、表層だけを見て面白そうだと思い込んだり、無意識にドラマと比較してしまう。身贔屓もあって、自分の閃きに対する評点はいつでもひたすら甘く、いざ書き始めてようやく「なんだか思ったより平凡な話だな」と気がつくわけだ。

 最近、登場する人物造形をむやみやたらと掘り下げるのが楽しくて仕方がない。
 これまでもある程度は人物のアウトラインを作っていたけれど、身体的な特徴や性格などをメモ書き程度にまとめたものにすぎなかった。
 今やっているのは履歴書にも現れない個人史の抜き書きのようなもの。いつ、何があって、今の人物に至っているか。何に影響され、どんな失敗をしてきたか。後悔している出来事とは何か。後悔するようなことがなかったとしたら、今はどうなっていたか。作中の人物でなくとも我々が普段考えがちなことを、創作する人物に成り代わって振り返ってみる。そうすると自分が思いつくまで存在しなかった人物——作中の人物だから、永遠に存在することはないのだが——が生々しく、実体感を伴って立ち上がる。

 小説はどこまでも架空の物語ではあるのだが、その世界の中で生きる人たちは皆、我々と同じように生きてきて、これからも生きて行くはずの人たちなのだから、立体感がないのはどうかしている。
 笑いもするし、悩みもするし、失敗も後悔も、ラッキーも全部あって当然なのだ。それを疎かにして筋立てだけに執心しても、抑揚もなければ厚みも深みもない、薄っぺらな表層的な話に終わるのは当然のことなのだ。

 自分とは違う時代に生まれ育った人が、過去にどんなことを考え、社会を見つめ、感情と折り合いをつけてきたのか。それを考えるのは実に楽しく、実に難しい。でもそうすることによって初めて顔が見えてくる気がするのだ。

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