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小説を勉強する

 ここしばらく小説を受け付けない時期が続いていて、もっぱら新書や専門書、エッセイなどを読み漁っていた。
 エッセイを読んでいると自分でも書きたくなってくるものだが、「非小説期」は不思議と書く気も起きない。興味深い題材で軽妙に書かれたエッセイを読んでも「ああ、なるほどなあ」「へえ、そんなふうになってたわけか」と感心してばかりなのである。
 こういう時期は技巧技術を習得するには向いているタイミングだと気づいたのはそれほど昔のことではない。一定の期間で繰り返しやってくる趣味の移り変わりを個人的に「趣味の換毛期」と呼んでいる。
 換毛期といっても、別に季節の変わり目に冬毛から夏毛に変わるような定期生はないのだが、フェイドアウトとフェイドインがクロスオーバーしてやってくる感覚が毛の生え変わりみたいな感じだなというだけハナシだ。

 文章書き、特に小説を書くことは通年営業、換毛期でも生え替わらない毛のようなものなわけだが、それでも若干の波はある。それがちょうどいま訪れている「非小説期」というわけだ。
 小説を読めないといっても何のことだかわからないと思う。
 別な言い方をすればどうしても物語に没入できない時期ということだ。
 普段なら作家の創った小説世界に入り込んで、頭の中は完全に小説の中の風景が周りを取り囲んでいるような状態になる。
 自分が本を開き、活字を読んでいるのではなく、小説の世界の一人として、物語を体感するような感覚に陥る(小説にもよるけれど)。
 それが読書の快感でもあるのは、読書家諸氏ならお分かりいただけると思うが、いまはどうしても没入できない。
 目の前にあるのは印刷された紙、活字で、綴られている文章はどこまでも文章で、そこから物語世界は立ち上がってこない。実に不幸な状態ではあるが、それも繰り返しているうちに慣れてしまった。こうした時期は文章の技術や技巧を習得するには都合がいい時期だと気づいたからである。

 普段はどのように書かれているかに注意を注いで文章を追いかけようとしても、気づくと物語の世界に取り込まれて、どのように書かれているかなどまったく気にしないまま読み進めてしまう。
 でも非読書期に限っては、いつまで経っても文章が文章のままいてくれるから、細かい部分——息継ぎはどれぐらいでしているか、物語の切り替えはどんなタイミングで行っているか、会話のやり取りはどれぐらいの分量で話し手を交代させているか、説明と描写は地の文の中でどのタイミングでされているか等々、物語に引きずり込まれることなく、文章のディテールを観察することができる。
 地の文の会話文の引き取り方、会話の繋ぎ方、三人以上での会話文の書き方、地の文への思考の埋め込み、独白を書く際のテクニックなど、文章を観察することで初めて気がつき、引き出しの中身を増やすことができるのは、いまのようなタイミングでしかできない。

 物語に没入できないのは、それはそれでいくらかストレスにはなるのだが、だからといって何もしないまま時間だけが過ぎることを考えれば、技術技巧を習得するチャンスだと割り切った方が気持ちは楽だ。
 観察して「なるほど!」と気づいた書く技術を、自分の文章で試してハマった時は、引き出しが一つ増えた達成感を得ることになる。
 だから本を読むことはやめられない。

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