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伏線ってのも随分安っぽくなったもんだ

 朝ドラ『カムカム・エブリバディ』の最終回が大絶賛である。
「伏線全回収!」「完璧に回収」「怒涛の伏線回収」「伏線回収が凄すぎ」「伏線回収史上で一番!」視聴者大絶賛である。

 確かに面白くはあった。1回も欠かさずに見た。
 でも深津絵里の再発見と川栄李奈の実力を再確認した以上のことはなかったように感じている。脇を固める俳優さんたちはみな魅力的だったけれど、脚本自体は一本調子というか、これまでの他のドラマと比較して、それほどまでに秀でていたとも思えなかった。
 だが、ドラマはドラマ。作り手が作りたいように作る。それだけだと思う。そんなことはどうでもいいのだ。作りの粗い脚本のドラマだった。僕はそのような感想を持っただけだから。

 衝撃だったのは、今日の最終回を「伏線回収」と思っている人のあまりの多さだ。
 今日の放送は最終回というより、物語のエピローグのようなものだった。
 ラス前がクライマックス、最終回にエンディングがあり、最後の最後に短くエピローグがある。物語の構造の王道だ。だがこのドラマにはエンディングはないも同然だった。
 延々と続くエピローグで、登場人物のその後の状況をひたすら説明していただけのものを「伏線回収」と呼んでいるのを目にして、伏線ってのがどういうものなのか知らないのかもしれないと、恐怖を感じてしまった(それは同時に習慣的に小説を読んでいる人が少ないということも表している)。

 物語を作る際に、伏線は必要な技術だ。
 物語をドライブさせていく、読者を引っ張っていくには欠かせない。
 時にそれは謎めいていて、時にそれは気にも留めないささやかなことで、時には「どうしてそんなことをわざわざ?」と感じるほど違和感のあるものだったりする。
 いずれにしても、伏線は物語が進んだところで「ああ、あれはここで効いてくるのか」と感じるものだ。あまりにわかりやすい前フリだと陳腐に感じるから、そこは腕の見せ所というやつである。

 アイザック・アシモフの「ロボット三原則」は書かずとも知っておられるだろうが、アシモフを真似て「伏線三原則」なるものを仕立てたとしたら
1.伏線はあらかじめ明示されなければならない
2.伏線は物語に並走しなければならない
3.伏線は物語に影響・干渉しなければならない
とでもなるだろうか。

 「チェーホフの銃」と違うのは、あらかじめ明示されていても、必ずしも使われるとは限らないという点だ。伏線は物語に影響、干渉して初めて伏線になる。
 かといってミスリードを連発すると、読者からは顰蹙を買う。
 思わせぶりなことばっかり書いておいて、全然関係のない横道それてばっかりじゃないか、と。

 最近は前フリが後になって説明されることを「伏線回収」と呼んでいるようだけれど、伏線は最後になって説明されるものではないし、そもそも説明されなければわからないようなものでもない。
 物語の進む方向に影響したり、時には複雑にしたり、コントロールしたり、と役割は色々とある。
 それは、物語が本筋を追いかけていくだけでは一本調子の、抑揚もなければ厚みもないものになってしまうからだ。
 現実の人生もそうだけれど、同時並行で生きている多くの人が接点を持ち、影響し合い、干渉することで様々な方向に変化していく。
 物語世界ではそれを意図的にやらなければならないから、伏線を設けることが必要不可欠になるというわけだ。

 それにしても、ああいう終わり方が大絶賛されるということは、小説を読む人って本当に減ってるんだろうなあ。
 余計なお世話だけれど、心配になってくる。いろいろと。

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