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ひつじ品

 Macが壊れたのは1週間前のこと。
 震災の翌年から10年、さんざん使い倒してきたのだから、感謝こそあれ、今さら驚きもなければ文句を言う筋合いもない。天命を全うできたのかどうかはわからないが、「よく頑張ってくれました」と線香の1本でも手向けて手を合わせたくなるほどだ。

 もちろん線香は手向けないし、手も合わせない。庭に穴を掘って埋めもしない。そもそも賃貸住まいでは埋める庭などない。
 できればサルベージしたいテキストがいくつか残っているので、詳しい友達に頼むまでは天袋で冬眠に入っていただくことになる。人間と違って腐敗もミイラ化もしないのは工業製品の美点だ。すぐに陳腐化はするけれど。

 「しばらくはデジタル・デトックスも悪くない」と、すぐにパソコンを書い直さずに、読書三昧、書きもの三昧の日々を目論んでいたのだが、ネット社会、デジタル社会によって植え付けられた悪癖は僕が想像していたよりもはるかに根深いものだった。3日もしないうちに生活のリズムが狂い始めて、体の調子がおかしくなってしまったのだ。

 僕はゲームをまったくやらない。
 動画を見まくることもない。
 ネットフリックスやアマゾンプライムとも縁がない。
 テレビも、見るのはいくつかのドラマとニュース、それに興味を惹かれたドキュメンタリーを見る程度。
 現代社会の標準的なライフスタイルは、急坂のいちばん麓から坂のてっぺんの家を見上げるようなものだ。誰が住んでいるのかも知らない家など羨ましくもないし、それほど強い興味も湧かない。
 文章を書くのも何が何でもパソコンじゃなければ、ということではない。
 ノートや原稿用紙に手書きすればいいのだし、三島も太宰も池波正太郎も松本清張も、小松左京もみんなそうして書いてきたのだ。
 それゆえ10日くらいパソコンがなくても不便はないだろうと予想していたのだが、予想は完全に外れた。
 予想はただの錯覚、ただの自信過剰だった。

 棚にはジャズやらロックやら、800枚ほどのCDがある。
 だが肝心なプレーヤーがない。
 今の我が家では音楽を聞くことができるのは唯一ネットだけなので、パソコンが使えなくなると、途端に雪の日のように音が消える(スマートフォンで聞くのは好みではない)。かといって今さらポータブルのCDプレーヤーを買う気も起きなかった。
 一瞬、以前使っていたマランツのCDコンポをもう一度買おうかとも思ったけれど、そこまで真面目に音楽を聞くことはなさそうだし、BGMのために余計な労力を費やす気にもなれない。
 というわけでマランツのコンポは5分ほどで廃案になり、無音に逆戻りしてしまった。生活の中で適度なノイズが必要な僕が音楽に不自由するのは、なんとも堪えた。

 手書きで文章を書くことは慣れ親しんだ習慣だ。
 昭和生まれのジェネレーションXの一人である僕は、最初からキーボードで文章を書いていたわけではない。慣れた手書きに戻るだけなのだから不便もなかろうと想像していたのだが、実際は音楽以上にしんどいものだった。
 とにかくひどく字を忘れている。
 自覚はあったけれど、ここまでひどいとは思わなかった。
 原稿用紙2枚程度の短い文章を書く間にも、漢字が思い出せずに「とりあえずカタカナで」ということを繰り返す。
 手書きの方が発想が広がるし、アイデア出しの作業は捗ったけれど、アイデアを記したメモが増えていくだけで、文章にはなかなか成長しない。

 40年前、シャープ製の書院というワープロを初めて手に入れたとき、頭に浮かんだ文章が揃ったフォントになって紙に印刷されていくことに感激した。
 あれから40年かけてデジタルテクノロジーとネットワーク社会は僕をゆっくりと侵食していった。毎日、机にノートを広げて、オレンジ軸のBicのボールペンで一日中何かを書きまくっていた「書院以前」にはもう戻れない。

 気付かない間のこととはいえ、生活のリズムまで現代社会の制圧下におかれてしまったのでは、不満があろうともとりあえずパソコンを新調するしかない。
 ことの成り行きを離れて暮らす奥さんにLINEで愚痴ったら「もう世の中のひつじ品になっちゃってるから降参して買いなさい」と返事が来た。吹き出してしまった(彼女は時々こういう上手い言葉遊びをすることがある)。

 「ひつじ品」であるなら仕方ないか、と故障4日目にして秋葉原のソフマップで型落ち品を安く手に入れてきた。常に最新型を持つマニアが見たら遺物扱いかもしれないような見事な型落ち品だった。
 もちろん僕が必要とする程度のことは十分に賄うことができる。不満はまったくない。なんとも安上がりなものである。
 世の中の潮流から3周半ぐらい遅れているのも存外悪くない。

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