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小説は仮説で世界を構築する遊び

昨日、短い時間、外出をしている最中に、ふとしたことから小説のとっかかりになるかもしれないヒントを2つ見つけた。
なんの変哲もない商店街を歩いている最中、目に止まった看板のちょっとした一言が興味深くて、それを全く違うシチュエーションで使ったらどうなるだろうと考えたのだった。

結局、物語を想像し始める瞬間なんて、たわいのない小さなものでしかなくて、そこからどれだけ広く、深く、遠くまで想像を広げられるかにかかっている。
いや、そんな真剣さではなくて、ほとんど遊びの範疇に入る気楽な連想ゲームなのだが。

「おばちゃんの買い物袋から飛び出している大根の葉っぱからでも小説は作れる」
これは学生の頃に物の例えとしてよく言っていたことなのだけれど、実際、小説は素材を使ってどんな料理を作るかの方が、料理ありきで作るより多い気がする。飛び出しているのが大根の葉っぱじゃなくて、鍋の持ち手や箒のアタマだったら、また違った物語がありそうだし、ノコギリの柄やバールが飛び出ていたらこれまた違う想像をするはず。
子猫が顔を出して不思議そうな表情をしていたら、それはそれでまた別の物語が潜んでいそうだ。

「もし**が@@だったらどうなるか?」という仮説だけが小説を成立させる要素だから、なんでもアリなのである。
あとはその仮説に現実味や現実感を与えられるかどうか。それは創作の本質ではなく、付随する技術論でしかない。
だから録音した猫の声を再生すると、人間の言葉になっているボイスレコーダーがあっても良いし、法律が改正されて仇討ちが公式に認められて、毎週日曜日のゴールデンタイムの人気番組になっている世の中であっても構わない。
買い物袋から猫が飛び出ているか、ネギが飛び出しているか、あるいはその両方が飛び出ているか、そんなささやかな違いで書くも良し、突然10月がなくなる世界を書くも良し。
筒井康隆の『残像に口紅を』がいま再び人気になるほど、小説は自由なのだ。

ただ、個人的に思うのは、小説は読者あってのものだから、ちゃんと読めて、ちゃんとわかるものにしなければならないということ。自由と責任はコインの裏表だ。
やっぱり書きたいものを書くんじゃなくて、読みたいものを書かなきゃなあ。自分で読んで面白くないものなど、自分で書く意味はないわけだし。

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